シャネルNo.5
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香水 シャネル N°5

シャネル N°5(Chanel N°5)[1] は、パリオートクチュールデザイナーだったガブリエル・ココ・シャネルが初めて送り出した香水である。読み方は、フランス語では"シャネル・ニューメロ・サンク"、英語では"シャネル・ナンバー・ファイブ"となる。

その香りを生み出す化学式を組成したのは、ロシア系フランス人科学者で調香師エルネスト・ボーである。
新しい香りという発想

伝統的に、女性が身に着ける香りは、大きく二つに分類されていた。『まともな』女性は、単一の園芸花のエッセンスを支持した。動物系のムスクジャスミンを多用した、セクシャルで挑発的な香りは、売春婦やクルチザンヌ(高級娼婦)等のいかがわしい女を連想するとされた[2]。シャネルは、1920年代の自由な精神を有する現代女性の心に訴えかける香りが求められているのを感じていた[要出典]。
N°5 という名前

シャネルは12歳の時に修道院に併設の孤児院に預けられ、その後6年間に渡り、厳しい戒律の下で生活した。この修道院は、12世紀にシトー修道会によりオーバジーヌ(英語版)に設立された[3]。オーバジーヌでの生活の初期の段階から、5という数字はシャネルに関わりが多かった。5という数字にシャネルは、純粋で神秘的なものを感じていた。シャネルが毎日祈りに通った聖堂の通路には、5の数字を繰り返すパターンが描かれていた[4]。修道院の庭は、五弁の花弁をもつゴジアオイがたくさん咲く青々とした山腹に囲まれていた[5]

主席調香師のエルネスト・ボーに、現代的で革新的な香りの開発を依頼した。1920年、香水の試作品のガラスの小瓶が、1から5、20から24の番号を振られてシャネルの前に並べられると、彼女は5番めの小瓶に納められた資料組成を選び出した。シャネルは、ボーに次のように語っている。「ドレスコレクションを、5番目の月である5月の5日に発表する。この5番めのサンプルの名前は、運がいい名前だからそのまま使う[6]。」
瓶のデザイン

ラリックバカラの登場により、香水瓶のデザインは華美で精緻、凝ったものが一般化していたが、シャネルの思い描くデザインは、その流れに逆らうものだった。

彼女は「非常に透明な、見えない瓶」でなければならないと考えていた。通常この香水瓶の、角を落とした長方形のデザインは、シャルベ (en) の洗面用化粧品の瓶に影響されたと考えられている。シャネルの恋人だったアーサー・カペルが愛用した革製の旅行鞄に、このシャルベの瓶が装備されていたという[7]

また、カペルの持っていたウイスキーデキャンタを気に入って、その「高価な、極上の、風情のあるグラス」を再現したのだという説もある[8][注 1]

1919年当時のシャネルN°5の香水瓶は、現在のものとは違うデザインだった。最初の容器は、小さくてほっそりした、丸い肩を持つもので、顧客を選ぶためシャネルのブティックでのみ販売された。

1924年に「パルファム・シャネル」が設立された際、ガラスの強度が運搬や配達には不足していることがわかった。そのため角を落とした四角いデザインの瓶に変更されたが、大きなデザインの変更はこれが唯一である[10]

1924年に刊行された「パルファム・シャネル」の販売パンフレットでは、香水容器について次のように説明している。

「製品が完璧だからこそ、ガラス工の技術に慣習的に頼ることを潔しとしない。並ぶもののない品質、ユニークな構成、クリエイターの芸術的個性を表現した、香水の貴重な一滴によってのみ装飾されたシンプルな瓶は、マドモアゼルのお気に入りとなるだろう[10]。」

1924年以来、瓶のデザインは同じものが引き継がれているが、栓のデザインは何度も変更がなされている。オリジナルの栓は、小さなガラスのものだった。シャネルブランドを象徴する八角形の栓は、1924年に瓶の形状が変更された時から使用されている。1950年代には、より厚く大きなシルエットの栓になり、斜角のカットが施された。1970年代に栓はさらに目立つものとなったが、1986年にバランスを訂正し、栓のサイズは瓶の大きさに釣り合うようになった[11]

バッグに入れて持ち運べるサイズの小瓶は、1934年に導入された。統一小売価格と容器サイズは、より幅広い顧客にアプローチするために開発された。これにより、大瓶の価格では高価すぎると感じていた顧客を取り込み、販売促進することに成功した[12]

香水瓶は、数十年を経てそれ自体が文化的意味合いを持つ人工産物となり、1980年代半ばにアンディ・ウォーホルは「広告:シャネル」と題したシルクスクリーンポップアート作品で、香水瓶を偶像として取り扱っている[13]

2014年クルーズコレクションではこのボトルと同型の筐体を持つバッグが展開された。
「パルファム・シャネル」を巡る争い

1924年、シャネルはピエールとポールのヴェルテメール兄弟と契約を結び、社団法人 「パルファム・シャネル」を設立した。ヴェルテメール兄弟は、1917年よりブルジョワ社取締役を務めていた。ヴェルテメール兄弟は、シャネルN°5[14] の生産、マーケティング、流通の資金調達をすべて引き受けることに同意した。彼らは会社の株の70パーセントを保持し、パリの百貨店ギャラリー・ラファイエットの創始者テオフィル・バデ(fr)が20パーセントを獲得した。

バデは、1922年にロンシャン競馬場でシャネルとピエール・ヴェルテメールを引き合わせて事業の仲介に尽力した人物である[15]。シャネルは自分の名の使用を 「パルファム・シャネル」に許可し、株の10パーセントを手元に残した上で、彼女自身はすべての経営から手を引くことになった[16]。この取り決めに不満を持ったシャネルは、「パルファム・シャネル」の経営権を取り戻すべく、20年以上働きかけた。彼女はピエール・ヴェルテメールを「私をだました泥棒」と呼んだ[17]

第二次世界大戦中にナチスユダヤ人所有の資産や企業を押収したが(アーリア化)、シャネルにとっては、「パルファム・シャネル」とその主力商品であるシャネルN°5が生み出す全ての金融資産を取り戻す機会だった。

「パルファム・シャネル」取締役のヴェルテメール兄弟はユダヤ人であり、シャネルは自身が「アーリア人」である立場を利用して、独占所有の権利を公認するようドイツ当局に働きかけた。

1941年の5月5日、シャネルは、ユダヤ人の金融資産の処置を裁定する行政官に向けて、手紙を書いた。彼女が所有権を主張する根拠は「パルファム・シャネル」が『ユダヤ人の資産のままである』ことであり、ヴェルテメールには法的に「棄却」されていた[18]。『私には議論の余地なく、優先権がある…この会社の設立以来、私が自身の創作から得た利益は…不釣り合いなもので…あなたは、この17年間に私がこうむった不利益を、ある程度取り戻すことができるのです[19]。』

シャネルは知らなかったが、ヴェルテメール兄弟は近いうちにナチスがユダヤ人の権限を取り上げることを予測し、1940年5月に「パルファム・シャネル」の経営権を、フランス人でキリスト教徒、実業家のフェリックス・アミオ(fr)に法的に委譲してあった。

第二次世界大戦終了後、アミオは経営権をヴェルテメールの手に返した[18][20]
シャネルの策略

1940年代半ばまでに、シャネルNo.5の売り上げは全世界で年900万ドルに達していた。この金額は、21世紀の価値に換算すると、年2億4000万ドルに値する。金銭的なリスクは大きかったが、シャネルは「パルファム・シャネル」の経営権をヴェルテメール兄弟からもぎ取る決心をしていた。

シャネルの計画は、顧客のブランドへの信頼やイメージを傷つけ、商品の売り上げをダウンさせようというものだった。シャネルN°5はもはや「マドモワゼル・シャネル」が生み出したオリジナルの香りではないこと、市販されているものは彼女の決めた配分基準には適合しないものであり、その劣った品質を彼女は認めることができないことを公表した。

さらにシャネルは、本物のシャネルN°5を作ると発表し、「マドモワゼル・シャネルN°5」[21] と名付けて選ばれた顧客に提供した[22]


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