シャトー・オー・ブリオン
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シャトー・オー・ブリオンは、ボルドー・ワインシャトーワイナリー)で、1855年のボルドーワインの格付けでは第1級に位置付けられたが、これはメドック外の土地が含まれる地所としては唯一の取得である。

シャトー・オー・ブリオンはボルドー近くのペサックにある。グラーヴ地区に位置し、AOCペサックレオニャンに入る。

1級ワインに加え、オー・ブリオンは赤のセカンド・ワインも生産しており、2007年のヴィンテージからは名称をシャトー・バーンズ・オー・ブリオン Chateau Bahans Haut-Brion からル・クラランス・ド・オー・ブリオン Le Clarence de Haut Brion に変更した。

またシャトー・オー・ブリオン・ブランという名の辛口の白ワインも生産しており、限定生産のセカンド・ラインは辛口の白で、レ・プランティエール・デュ・オー・ブリオン Les Plantiers du Haut-Brion という。このワイン農園を擁するドメーヌ・クラレンス・ディオン Domaine Clarence Dillon はまた2003年より、クラレンドル Clarendelle と名づけられたボルドー・ブランドのワインを発売している。
目次

1 歴史

1.1 近代の歴史


2 生産高

3 クラレンドル

4 脚注

5 外部リンク

歴史

ブドウはローマ時代からこの地所で生えていたと思われるが、土地の一画を耕したという文書記録は、もっとも古くて1423年のものとなる。地所は1509年、ジャン・ド・セギュール Jean de Segur によって購入され、1525年、海軍大将フィリッパ・ド・シャボー Philippe de Chabot の所有になった[1]

1525年4月、ジャン・ド・ポンタックはジャンヌ・ド・ベロンと結婚する。ジャンヌは、オー・ブリオン領主のリブルヌ市長の娘であり、持参金として地所をジャンにもたらした[1][2]。1533年にはオー・ブリオンの邸宅を購入し、1549年にシャトーの建設が始まる。

1649年、アルノー3世・ド・ポンタック卿がオー・ブリオンの所有者となり、ワインの人気が本格的になった。オー・ブリオンのワインについての最初の記録は、イングランドチャールズ2世ワインセラーの元帳で見つかる。1660年から1661年の間に、「 Hobriono のワイン」169本が王の宮廷に収められたのである。サミュエル・ピープスが日記に記したところによれば、1663年4月10日、ロイヤル・オークの居酒屋でワインを試飲し、「 Ho Bryen と呼ばれるフランスワインを飲んだが、いまだ味わったことのない、おいしいワインだった」という[1][2][3][4]

1666年、ロンドン大火のあと、息子のフランソワ・オーギュストがロンドンに「ポンタックの看板 L’Enseigne de Pontac 」という名の居酒屋を開いた[5]。この居酒屋は、アンドレ・サイモンによれば、ロンドンで最初に流行した飲食店であった[2][6]ジョナサン・スウィフトが「ワイン大瓶につき7シリング」と書いている[1]

17世紀の終わりまでに、地所の広さは264ヘクタールに達し、そのうち約38ヘクタールがブドウ畑であった[2]。ワインはしばしばポンタックの名で売り出された。ポンタック家は多くのワイン農園を所有し、この名前を使用することもできたため、オー・ブリオンのワインがいつ作られるようになったかは不明である[2]。ポンタック Pontac はしばしば Pontack とも綴られ、ブランクフォールにあるポンタック家所有の、白ワインを産出する別の地所もまた、この名前で売り出された[1]

イギリスの哲学者ジョン・ロックは、1677年にボルドーを訪れ、オー・ブリオンの話を残している。「・・・ポンタックのワインは、イギリスで尊重されているが、最西に向かって開けた、小高い丘の上で造られている。地所は純粋な白い砂で、少量の砂利が混じっている。One would imagin it scarce fit to beare anything..」。ワインの価格が高まりつつある理由については、「金持ちのイギリス人が、金に糸目をつけないで注文するお蔭」だと書いている[1][4]。ドイツの哲学者ヘーゲルもまた、ポンタックのワインに魅せられていたが、彼の注文はサン・テステフの他のポンタックワインのものが知られているのみである[7]

フランソワ・オーギュスト・ド・ポンタックの死により、婚姻で義理の甥となったフランソワ・ジョゼフ・ド・フュメルがオー・ブリオンの3分の2を、3分の1をラトレーヌの領主ルイ・アルノー伯爵が相続する。フュメル一族はまた一時期、シャトー・マルゴーをも所有していた[1]

1787年、駐仏大使だったトーマス・ジェファーソンが、ボルドーを訪問する。5月25日、彼はオー・ブリオンを訪れ、そのテロワールについて、「オー・ブリオンの土については、かなり詳しく調べた。砂に、丸い石や小さな石、あるいはメドックにふさわしいロームがごく少量混ざっている[4]。彼の記録でオー・ブリオンは、第1級ワインの産地4つの間に位置付けられている。”「3.オー・ブリオン、3分の2はド・フュメル伯爵の所有であり、バルトンと呼ばれる商人にその収穫を売り渡した。残り3分の1はトゥールーズ伯爵のものであり、合わせるとシャトーは75バレルを算出することになる。」[8]。オー・ブリオンは、第1級ワインの中では、初めて公式にアメリカ合衆国に輸入されたワインとなった。ジェファーソンは、この旅でオー・ブリオンを6ケース購入し、バージニア州の自分の屋敷に送らせたのである[9]

フランス革命の結果、1794年7月、ジョゼフ・ド・フュメルはギロチンにかけられ、彼の資産は分割された[1][4]。その死後、ド・フュメルの相続人はジョゼフの赦免状と没収された資産の補償を入手したが、彼らはフランスを去った。1801年、オー・ブリオンは、ベネヴェント公爵でもあったタレーランに売却され、彼は3年間オー・ブリオンを所有していた[1][2]

1804年から1836年はオー・ブリオンの停滞期となり、所有者が次々と代わっていき、[1]最後に競売にかけられたオー・ブリオンをジョゼフ=ウージェーヌ・ラリューが購入する。1841年にはシェ・ヌフ( Chai-Neuf、「新しい酒蔵」の意)をカトラン公爵から購入して、1694年のフランソワ=オーギュスト・ドポンタックの死以来ばらばらになっていた地所を、元のように一つにまとめた。


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