シャクシャイン
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シャクシャイン
シャクシャイン像(初代)
生誕1606年慶長11年)?
北海道日高地方
死没1669年11月16日寛文9年10月23日
ピポク松前藩陣営(現、北海道新冠町
死因暗殺
記念碑銅像(新ひだか町
民族アイヌ民族
職業惣乙名
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シャクシャイン(沙牟奢允、アイヌ語:サクサイヌ Saksaynu または サムクサイヌ Samkusaynu、1606年慶長11年)? - 1669年11月16日寛文9年10月23日))は、江戸時代前期のシベチャリ(北海道日高管内新ひだか町静内)のアイヌ一部族の首長惣乙名[1][注釈 1]
経歴シャクシャイン城址シャクシャイン城址碑 碑文

シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクル惣乙名であった。メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の惣乙名であるカモクタインはシュムクルの惣乙名・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、小使であったシャクシャインが惣乙名となった。

シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)[注釈 2]。両者は対立していたが、松前藩の仲介によっていったん講和した[4]。しかし、寛文年間(1661?1673年)には両者の対立が再燃し、1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害した[4]。報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出たが拒否された[4]。ハエの使者が帰路に天然痘のため急死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエが一つにまとまったのであった[4]

シャクシャインの蜂起は、秋田藩仙北郡六郷村の正太夫という者が夷地に渡って、アイヌの聟となっていた。この者が目論んだものである[5]。シャクシャインの参謀長はその娘聟で六郷村生まれのタットウイン(龍頭允)荘太夫(正太夫、庄太夫)という者であった[6]

1669年の時点で、松前藩とアイヌの交易は松前藩側に圧倒的に有利で、アイヌにとって商場交易は八方ふさがりの状態にあった[4]。シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌへ松前藩への戦いを呼びかけた[4]1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした[4]。これがシャクシャインの戦いである[4]。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した[4]。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町クンヌイまで攻め進んだ[4]。松前藩から急報を受けた徳川幕府東北へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された[4]

クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、松前藩は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた[4]。シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺された[4]。戦争は約3年続いたが、指導者を失った蜂起者たちは最終的に松前軍に降伏した[4][注釈 3]
記念物
シャクシャイン像真歌公園内初代シャクシャイン像(現在ブロンズ像に再生して同新ひだか町花園地区に設置された)
初代シャクシャイン像

1970年9月15日、シャクシャインのチャシが遺跡として残る新ひだか町・真歌公園に、任意団体「シャクシャイン顕彰会」によって強化プラスチック製の立像が有志の寄付により建立され、1976年に静内町に寄贈された[7][8]。このシャクシャイン像は彫刻家竹中敏洋がデザインしたもので[9]、像は高さ3.5m、杖の先までの長さは4.2m[7]。「風をはらんだカッコロ(マント)を背に、エキ?ネクワ(山杖)を右手にかざし、神の祈りを聞くシャクシャインの姿」を表現したもので、一部に言われている松前藩の方向へ怒りを表した姿ではないことが、1972年9月30日に発行された児童書「明日に向かって アイヌの人びとは訴える」によって記されている[10]。毎年9月には、像の前で全道からアイヌの人々を集めた法要祭を行っている[8]

1972年9月20日結城庄司ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた町村金五知事(当時)の名を削り取る事件があった。犯行に新左翼太田竜が加わっていたことから、警察は札幌オリンピックを控えた時期を狙った過激派による事件とし、全国指名手配の末1974年に結城らを逮捕した。しかしこの事件で有罪となったのは太田のみで、結城や足立正生新谷行など他の4人は起訴猶予処分となった。

その後老朽化により2代目(後述)の建造計画が発表されると、シャクシャイン顕彰会が設立時に込められたアイヌと和人の寄付だけで設立された日本初の和合の証である歴史に重きを置き、子どもたちの未来に向けられた像の解体に反発、新ひだか町は新像完成後に旧像撤去を行う方針だったものの顕彰会の申し出を受けて保留し、町・アイヌ協会・顕彰会による3者会談を行ったが[8]、協議は平行線をたどり、一旦旧像を残したまま新像も立てる方針とするも[11]、結局、9月20日に新ひだか町は「老朽化が進み、倒壊の恐れがあり危険」として旧像を一方的に撤去した[12]。さらに、2021年11月には、残された初代ユカルの塔や初代シャクシャイン像の台座(全道からアイヌの仲間が大切に持ち寄った黒曜石や、子どもたちが川から拾った石が埋め込まれていた)やシャクシャイン会の解説が刻み込まれた石碑などすべてが撤去され更地となった[13]

2018年10月にはシャクシャイン顕彰会が町による旧像の撤去を「対応が乱暴で納得いかない」として、旧像の型枠を用いた独自の再建計画を検討し[14]、約1,700万円の寄付を集めた上でブロンズを用い旧像を再建し2020年10月にお披露目され新ひだか町内の倉庫で保管されていた[15]


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