シャキール・オニール
Shaquille O'Neal
2017年のオニール
引退
愛称Shaq
The Diesel
The Big Aristotle
国籍 アメリカ合衆国
生年月日 (1972-03-06) 1972年3月6日(52歳)
出身地ニュージャージー州ニューアーク
身長(現役時)216cm (7 ft 1 in)
体重(現役時)147kg (324 lb)
ウィングスパン(現役時)224cm (7 ft 4 in)[1]
キャリア情報
高校フルダ・アメリカン高等学校
1994(.599) 1998(.584) 1999(.576) 2000(.574) 2001(.572) 2002(.579) 2004(.584) 2005(.601) 2006(.600)
No. 34 ロサンゼルス・レイカーズ永久欠番
No. 32 マイアミ・ヒート永久欠番
AP通信年間最優秀選手賞 (1991)
UPI年間最優秀選手賞 (1991)
アドルフ・ラップ賞 (1991)
2× オールアメリカン・コンセンサスファーストチーム (1991, 1992)
2× SEC年間最優秀選手 (1991, 1992)
NCAAブロック王 (1992)
NCAAリバウンド王 (1991)
No. 33 LSUタイガース永久欠番
FIBAバスケットボール・ワールドカップMVP (1994)
USAバスケットボール男子年間最優秀選手 (1994)
マクドナルド・オール・アメリカンゲームMVP[c] (1989)
パレード誌オールアメリカン・ファーストチーム (1989)
テキサス州ミスター・バスケットボール (1989)
通算成績
得点28,596 (23.7 ppg)
リバウンド13,099 (10.9 rpg)
ブロック2,732 (2.3 bpg)
Stats Basketball-Reference.com
Stats NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
バスケットボール殿堂入り選手 ( ⇒詳細)
FIBA殿堂入り選手 ( ⇒詳細)
カレッジバスケットボール殿堂入り (2014年)
代表歴
キャップ アメリカ合衆国 1994-1996
獲得メダル
アメリカ合衆国
オリンピック
金1996 アトランタバスケットボール
FIBAバスケットボール・ワールドカップ
金1994 カナダ大会MVP
シャキール・ラシャウン・オニール(Shaquille Rashaun O'Neal, [???ki?l] sh?-KEEL; 1972年3月6日 - )は、アメリカ合衆国・ニュージャージー州ニューアーク出身の元プロバスケットボール選手。現在はインサイド・ジ・NBA(英語版)のスポーツアナリストである。
シャック(Shaq)の愛称で知られ、全盛期にはNBA史上最も支配的なプレイヤーと称され、歴代最高のセンターの一人と考えられている[3][4][5][6]。巨漢の集まるバスケットボール選手の中でも、身長7 ft 1 in (2.16 m)、体重が325 pounds (147 kg)と規格外の体格をもつ選手であり、NBA史上最も体重の重い選手である[7]。 「Shaquille Rashaun(シャキール・ラシャウン)」とは、アラビア語で「小さな勇士」という意味だと本人は語っている[8]。 実の父ジョセフ・トーニーは高校時代からバスケットボールのスター選手で、シートン・ホール大学に進学したが薬物中毒で途中退学し、1972年12月には麻薬購入のために小切手を偽造した罪で連邦刑務所に収監された。そのため母ルシールは幼いオニールを連れ、フィリップ・ハリソンと再婚する。それから今日までオニールはフィリップを本当の父親と考えている(後に姿を現したトーニーはインタビュアーに「テレビでプレ・オールスターゲームを見るまで息子の行方が分からなかった」と話した。トーニーは1993年のオーランド・マジック対ニュージャージー・ネッツの試合後にオニールに会うだろうと語ったが、オニールは現れなかった。トーニーは2002年の時点でニューアークの施設に住んでいたが、オニールは彼に会う考えはないと語っている)。 1992年のNBAドラフトでルイジアナ州立大学からオーランド・マジックに全体1位で指名されオニールはNBA入りを果たす。ルーキー・イヤーからバスケットのゴールをダンクシュートで2度も破壊
生い立ち
NBA
オーランド・マジック
1993-94シーズン、アンファニー・ハーダウェイがトレードでマジックに加入した。オニールを中心にマジックはチームとして機能し始め、球団初のプレイオフ進出を果たした。また、オフにはシャック・ディーゼルの名でラップのCDをリリースし、チームメートのアンファニー・ハーダウェイおよびニック・ノルティと共に映画『Blue Chips』に出演してハリウッドデビューを果たした。
1994-95シーズン、マジックに新たにホーレス・グラントが加わりオニールは毎試合インサイドを牛耳るようになり、前年逃した得点王の座についた。オニールとスーパースターに成長を遂げたハーダウェイとのコンビは「マジック・ジョンソンとカリーム・アブドゥル=ジャバー以来の強力デュオ」といわれた。オニールはチームをイースタン・カンファレンス最高勝率に導き、プレイオフでのホームコートアドバンテージを獲得した。そしてチームを初のNBAファイナルへと進出させることに貢献した。だが、ファイナルではアキーム・オラジュワン、クライド・ドレクスラーを擁するヒューストン・ロケッツの前に1勝も出来ずに敗退した。オニールはオラジュワンにベテランとしての上手さを見せ付けられた。それでも復帰したばかりとはいえマイケル・ジョーダンのいるシカゴ・ブルズをカンファレンス準決勝で破りファイナルに出場したことはオニールに取って大きな経験となり、NBAにとっても新たな時代を予感させる出来事であった。
1995-96シーズン、オニールは28試合を欠場するが、その間にハーダウェイが目覚しい活躍を見せマジックは勝ち星を積み重ねていた。ハーダウェイがオニールを上回る契約をマジックと交わしていたこともあり、この辺りから二人の不仲が徐々に表面化し始める。チームは2年連続で地区優勝を果たしプレイオフで再びブルズと対戦したが、今回は全く歯が立たずに敗退、オフにフリーエージェントとなったオニールは、ロサンゼルス・レイカーズへ移籍した。
ロサンゼルス・レイカーズ2000年のNBAファイナルのオニール
1996年オフ、オニールは7年間1億2000万ドルという契約でロサンゼルス・レイカーズに入団した(オニールは昔からレイカーズのファンだった)。レイカーズはオニールを含め複数のオールスター選手を抱えるチームだったが、オニールの唯我独尊のスタイルは相変わらずで、同じ年に入団したコービー・ブライアントとの確執も度々取り沙汰されるようになり、彼が移籍してから3年の間はファイナル進出はほど遠い状態だった。
1999年オフ、チームがフィル・ジャクソンをヘッド・コーチに迎えるとレイカーズはオニールを主軸にトライアングル・オフェンスを布いて一気にウェスタンカンファレンス屈指の強豪へと生まれ変わった。オニール自身もチームプレーヤーへと変貌、1999-2000シーズンはチームを破竹の連勝に導きホームコート・アドバンテージを獲得する。プレイオフでは勝負強い試合運びを見せ、遂に念願のNBAチャンピオンとなる。オニールはこの年、レギュラー・シーズン、オールスター、ファイナル全てのMVPを独占している。アメリカ合衆国第43代大統領ジョージ・W・ブッシュと握手を交わすシャキール・オニール(手前左) - 2002年1月28日, ホワイトハウスのEast Roomにて