公用語ドイツ語
首都ビュッケブルク
州政府議長
1919年 - 1922年オットー・ベーマー
1927年 - 1933年ハインリヒ・ローレンツ
州首相
1933年 - 1945年カール・ドライアー
面積
340km²
人口
1925年48,046人
変遷
ドイツ革命1918年11月9日
州憲法成立1922年2月24日[1]
自治権停止1935年1月30日
ニーダーザクセン州に合併1946年11月23日
現在 ドイツ
シャウムブルク=リッペ自由州または シャウムブルク=リッペ伯領は、1647年にシャウムブルク郡がブラウンシュヴァイク=リューネブルク公、ヘッセン=カッセル方伯、リッペ伯の下に分割されて成立した。シャウムブルク=リッペ伯領の領地は小さく、当初は行政施設をヘッセン=カッセル方伯領シャウムブルク郡と共用するほどで、前途は多難であった。ヘッセン=カッセル方伯がシャウムブルク=リッペ伯領を我が物にせんと狙っていたため、シャウムブルク=リッペ伯ヴィルヘルムは国防に力を注いだが、そのせいで国は債務過剰に陥った。 ゲオルク・ヴィルヘルムの治世において、シャウムブルク=リッペ伯領は他のドイツ諸侯と共にナポレオンに付き、ライン同盟を結成した。1807年にはゲオルク・ヴィルヘルムがシャウムブルク=リッペ侯に叙されて侯国に昇格し、ナポレオン戦争後の1815年にはドイツ連邦に加わった。1867年にはプロイセンが主唱する北ドイツ連邦に加わり、1871年からはドイツ帝国の領邦国家となった。第一次世界大戦後のドイツ革命によりドイツ帝国内の領邦国家で次々と君主が廃位される中、最後まで残った君主の一人であるシャウムブルク=リッペ侯アドルフ2世も1918年11月15日に廃位・追放された。 第一次世界大戦後、シャウムブルク=リッペ侯国はヴァイマル共和政の下で自由州に再編された。シャウムブルク=リッペ州ではドイツ社会民主党が州議会第一党を占め、1933年3月までドイツ民主党との連立政権を維持していた。プロイセン自由州との関係が深く、1926年の住民投票でプロイセンとの合併が図られたが過半数に及ばず否決された。1930年にも州議会で諮られたが、3分の2以上の賛成を得られず否決された。 シャウムブルク=リッペ自由州は、行政上はビュッケブルク郡とシュタットハーゲン郡、さらに1934年に都市権を得た郡独立市ビュッケブルクおよび郡独立市シュタットハーゲンで構成されていた。 1946年8月23日のイギリス軍政令第46号でイギリス占領地域の諸州を独立国とすることが宣言され、シャウムブルク=リッペ自由州はシャウムブルク=リッペ共和国となった。 1946年11月23日には、ブラウンシュヴァイク共和国 (ソ連占領下にあり、ザクセン=アンハルト州に統合された東部のブランケンブルク郡とカルフェルデの飛び地およびヘルムシュテット郡を除く)、ハノーファー州 (ソ連占領下のエルベ川右岸を除く)、オルデンブルク共和国およびシャウムブルク=リッペ共和国はニーダーザクセン州に統合された。また、2つの郡も郡庁所在地をシュタットハーゲンとするシャウムブルク=リッペ郡に統合された。
シャウムブルク=リッペ自由国(ドイツ語: Freistaat Schaumburg-Lippe)は、1918年のドイツ革命によるシャウムブルク=リッペ侯国の解体により成立した、ドイツ国の自由州である。ヴァイマル共和政の元で議会制民主主義を敷いていた。第二次世界大戦を経て1946年まで存続し、ニーダーザクセン州に合併されて消滅した。シャウムブルク=リッペ州ともいう。
歴史
前史
第一次世界大戦後
第二次世界大戦後
Size:26 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef