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シャイバーニー朝の版図
公用語テュルク語
ペルシア語
首都サマルカンド→ブハラ
ハン
1428年 - 1468年アブル=ハイル・ハン
1500年 - 1510年ムハンマド・シャイバーニー・ハン
1510年 - 1531年クチュクンジ・ハン
シャイバーニー朝(シャイバーニーちょう、ウズベク語: Shayboniylar / Шайбонийлар、英語: Shaybanid Dynasty、ロシア語: Шейбаниды)は、15世紀 - 16世紀にかけて中央アジアに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスの系譜を引く遊牧集団ウズベクによって建てられたため、ウズベク・ハン国、ウズベク・ウルスとも呼ばれるが、ブハラを首都としたため、続くジャーン朝、マンギト朝(英語版)とともにブハラ・ハン国とも呼ばれる。また、ホラズム地方のウルゲンチを首都とした政権もシャイバーニー朝であるが、こちらはウルゲンチのシャイバーニー朝、もしくはヒヴァ・ハン国と呼んで区別する。
一見中央集権的にみえるシャイバーニー朝であったが、実際には複数の遊牧部族の寄り合いによってできた政治的連合体であった[3]。 シャイバーニー朝、或いはシャイバーン朝と称されるこの王朝の名はチンギス・カンの長男のジョチの五男のシバンからきている。それゆえにシャイバーニー朝と呼ばれる王統はいくつもあり、ブハラ・ハン国を始めヒヴァ・ハン国、シビル・ハン国もシャイバーニー朝であるが、ブハラ・ハン国のムハンマド・シャイバーニー・ハン以降の政権を特にシャイバーニー朝と呼ぶことが多い。 15世紀前半、ジョチ・ウルス東部(旧オルダ・ウルス)において、ウズベクと呼ばれる遊牧集団の活動が活発化してくる。彼らを率いたのはジョチの五男のシバンの末裔であるアブル=ハイル・ハン(在位:1428年 - 1468年)であった。彼はモンゴル時代から名の知れたブルクト部の支援を受けて即位し、シバン家に敵対する勢力を駆逐してサライ政権(ジョチ・ウルス)から独立した。1430年/1431年にはティムール朝領のホラズムに遠征し、1446年にはキプチャク草原東部を統一した。同年、アブル=ハイル・ハンはシル川中流域のオアシス都市スグナク、サウラン
名称
歴史
1468年にアブル=ハイル・ハンが没すると、ウズベクのウルスは分裂状態に陥り、その多くはケレイ・ハンとジャニベク・ハンの支配するカザフ・ハン国に流れた。1496年/1497年、アブル=ハイル・ハンの孫であるムハンマド・シャイバーニー・ハンがティムール朝の衰退に乗じてシル川中流域に拠点を置き、ウズベク集団の再統合に成功した。