シモーヌ・ヴェイユ
Simone Weil
生誕1909年2月3日
フランス共和国・パリ
死没 (1943-08-24) 1943年8月24日(34歳没)
イギリス・アシュフォード(ケント)
時代20世紀哲学
地域西洋哲学
学派フランス20世紀哲学・思想
研究分野認識哲学、政治哲学、宗教哲学、言語哲学、神学論
影響を受けた人物
ベルナール&セルマ・ヴェイユ(両親)、アンドレ・ヴェイユ(兄)、アラン、ジュール・ラニョー[1]、プラトン、ギリシア神話、ギリシア文学、マルクス・アウレリウス、ルネ・デカルト、ジャン=ジャック・ルソー、バールーフ・デ・スピノザ、ニッコロ・マキャヴェッリ、レフ・トルストイ、ラシーヌ、オノレ・ド・バルザック、ウィリアム・シェイクスピア、ピエール・ジョゼフ・プルードン、カール・マルクス、トーマス・エドワード・ロレンス、新約聖書、聖フランチェスコ[要曖昧さ回避]、十字架のヨハネ、鈴木大拙、バガヴァッド・ギーター、マイスター・エックハルト、ウパニシャッド、グノーシス派、カタリ派など
影響を与えた人物
アルベール・カミュ、アイリス・マードック、アンネ・カールソン
シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ、Simone Weil, 1909年2月3日 - 1943年8月24日)は、フランスの哲学者である。父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
ヴェイユは第二次世界大戦中に英国アシュフォード(ケント)でほぼ無名のまま客死した(享年34)。戦後、知人に託されていたノート(カイエ)を編集した箴言集『重力と恩寵』が出版され、ベストセラーとなった。その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を、知人やヴェイユの思想に感銘を受けたカミュが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、多言語で翻訳されるようになった。遺稿は政治思想、歴史論、神学思想、労働哲学、人生論、詩、未完の戯曲、日記、手紙など多岐に渡る。 1909年2月3日、シモーヌ・アドルフィーヌ・ヴェイユ (Simone Adolphine Weil)[2] は父の医師ベルナール・ヴェイユと母セロメア(通称セルマ)の娘としてパリのアパートで誕生した[3]。兄アンドレは3歳年上。1歳を過ぎても固形物を摂ることができず重篤な状態に陥り「この子は生きられない」と医師に言われたが専門家の指導と両親の努力により危機を脱した[4]。 両親は共にユダヤ系であったがその完全な不可知論[5]により兄妹をできるだけユダヤ的なものから遠ざけて育てた[6]。1914年、第一次世界大戦勃発と同時に父ベルナールは軍医として招集され各地を転戦した。家族の同行は軍律で禁じられていたが母親セルマは二人の子供・祖母・愛犬を引き連れて夫の任地を追い転々とした[7][8]。揺れ動く状況下で兄妹の教育は切れ切れとなったが、通信教育などで独学していた兄アンドレがシモーヌに字を教えた[9]。兄妹は父親を驚かせようと隠れて勉強し、新年元旦に父親の前で5歳のシモーヌが新聞を読んでみせ父親を驚かせた[10]。5歳で字が読めるようになったシモーヌはいろんな本を暗記するようになり7歳のときにはラシーヌやコルネイユを暗誦した[11]。 1916年、戦争はおびただしい人命と物資の損耗を重ねながら長期化していた[12]。兄アンドレと7歳のシモーヌはそれぞれ前線にいる自分の兵士[13]と手紙を交わすようになり、自分たちのお菓子を前線に送ったりした。シモーヌの文通相手の若い兵士は8歳のシモーヌと会うため許可をとってヴェイユ一家の滞在地を訪れ、彼女と話をした[14]。しかしこの若い兵士は、その後死んだ[15]。9歳のシモーヌは愛国的な詩に熱中するようになった。 1918年に戦争は終結したが、ヴェイユ軍医はすぐ除隊とはならず一家は任地に留った[16]。もう新聞を読める9歳の少女は戦後のヴェルサイユ条約が敗戦国ドイツに過酷すぎると感じた[17]。少女の政治に対する関心は弱い立場に対する同調と抑圧への嫌悪を伴って終生保たれ続けた[18]。 父ベルナールの除隊が認められると一家はパリへ戻り、1919年10月、シモーヌはパリのフェヌロン高等中学に入学した[19]。学校で彼女はその不器用さゆえ製図やデッサンで成績が悪く[20]、母セルマが担当の老嬢の先生を訪ね、娘は血行が悪いため手が腫れているから不器用なのだと訴えると、老嬢は自分の手をたたいてみせ「足りないのはここではございません」と言うと自分の額を叩いて「ここですよ」と答えた[21][22]。
生涯
誕生
幼少期(?第一次世界大戦)従軍中の父ベルナール、母セルマ、兄アンドレと。7歳
少女時代(9歳?)シモーヌ・ヴェイユ12歳(1921年)