シモーヌ・ド・ボーヴォワール
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この項目では、フランスの哲学者について説明しています。ボーヴォワールのその他の用法については「ボーヴォワール」をご覧ください。

シモーヌ・ド・ボーヴォワール
生誕 (1908-01-09) 1908年1月9日
フランスパリ6区
死没 (1986-04-14) 1986年4月14日(78歳没)
フランスパリ
時代20世紀哲学
地域西洋哲学
出身校パリ大学
学派実存主義フェミニズム
研究分野哲学フェミニズム倫理学現象学マルクス主義
主な概念実存主義、実存主義フェミニズム、フェミニズム倫理学、第二の性、他者性、老い
影響を受けた人物

ルネ・デカルトメアリ・ウルストンクラフトイマヌエル・カントゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルエトムント・フッサールセーレン・キェルケゴールマルティン・ハイデッガーカール・マルクスフリードリヒ・ニーチェジャン=ポール・サルトルマルキ・ド・サド

影響を与えた人物

ジュディス・バトラーアルベール・カミュジャン=ポール・サルトルカミール・パーリア、ベティ・フリーダン、アドリエンヌ・リッチジャーメイン・グリアジュリア・クリステヴァモニック・ウィティッグアニー・エルノーエリザベット・バダンテール、ミシェル・ペロー

署名
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シモーヌ・ド・ボーヴォワール (Simone de Beauvoir、1908年1月9日 - 1986年4月14日) は、フランスの哲学者作家批評家フェミニスト理論家・活動家である。20世紀西欧の女性解放思想の草分けとされる『第二の性』(1949)、ゴンクール賞を受賞した自伝小説『レ・マンダラン』(1954) など多くの著書を残した。主要著書はほとんど邦訳されている。

1970年代人工妊娠中絶の合法化を求める運動をはじめとする女性解放運動 (MLF)に加わり、『レ・タン・モデルヌ』、『フェミニズム問題(フランス語版)』などを通して運動を牽引した。

在学中に出会ったジャン=ポール・サルトルとは、実存主義の立場から自由意思に基づく個人の選択を最重要視し、婚姻も子どもを持つことも拒否。互いの性的自由を認めつつ終生の伴侶として生きた。

1954年ゴンクール賞1975年エルサレム賞1978年オーストリア国家賞を受賞。

2008年、女性の自由のためのシモーヌ・ド・ボーヴォワール賞(略称:シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞)が設立され、アヤーン・ヒルシ・アリマララ・ユスフザイミシェル・ペローらが受賞している。
経歴・時代背景

ボーヴォワールにあっては、その生き方(サルトルおよび他の女性・男性との関係)、哲学(人間存在の探究)、思想的立場(実存主義、フェミニズム)、政治的立場(社会主義)、政治・社会活動(アンガージュマン)、執筆活動が分かちがたく結びついている。以下では、これらについて、主にボーヴォワールの自伝小説『娘時代』、『女ざかり』、『レ・マンダラン』、『別れの儀式』およびマリー・ジョ・ボネ[1]らの伝記に基づいて記述する。
生い立ち

1908年1月9日、パリ6区モンパルナス大通り103番地で、ジョルジュ・ベルトラン・ド・ボーヴォワールとフランソワーズ・ブラスールの間にシモーヌ・リュシ・エルネスティーヌ・マリ・ベルトラン・ド・ボーヴォワールとして生まれた。父ジョルジュはパリ控訴院弁護士、母フランソワーズはヴェルダンロレーヌ地方)の裕福な銀行家ギュスターヴ・ブラスールの娘であったが、翌1909年、ギュスターヴ・ブラスールが破産し、13か月間投獄された後に釈放され、妻と共にパリに引っ越した[1]

1910年6月6日、妹アンリエット・エレーヌ・ド・ボーヴォワール誕生。ボーヴォワール一家はリムーザン(フランス中南部)にある地所でヴァカンスを過ごすことが多かったため、シモーヌはリムーザンの自然を生涯、愛し続けた。

1913年(5歳)、パリ6区ジャコブ通りのカトリック系の私塾アドリーヌ・デジール学院に入学した。1880年代ジュール・フェリーの教育改革により公教育の非宗教性・無償性が保障されたため、学費を払ってカトリック系の私立学校に子どもを通わせたのは、ほとんどがブルジョワ階級の家庭であった。

1914年8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告(第一次世界大戦)。

1917年、もともと貴族趣味で特に演劇に熱を入れていた父ジョルジュは弁護士を辞め、新事業に手を出していたが失敗し、経済状態は悪化する一方だった。

1918年(10歳)、終戦。アドリーヌ・デジール学院で少女ザザ(本名エリザベット・ラコワン)に出会い、互いに惹かれ、親交を深める。

1919年(11歳)、父ジョルジュの経済状態がさらに悪化したため、レンヌ通り71番地の狭いアパートに引っ越した。シモーヌは父に「お前には持参金がないのだから、結婚はしないで、仕事に就かなければならない。お前には男の頭脳があるのだから」と繰り返し言われ、見捨てられたと感じるようになった(『娘時代』)。

1922年(14歳)、シモーヌは週に3回聖体拝領を受け、月に3回告解をするほど敬虔なカトリック教徒だったが、告解の際の神父の世俗的な発言に憤りを感じ、信仰を失うきっかけとなった(『娘時代』)。

1925年(17歳)、バカロレア取得。ヌイイ=シュル=セーヌのサント=マリー学院、次いでパリ・カトリック学院に入学。母方の祖父ギュスターヴ・ブラスール死去。

1928年(20歳)、妹エレーヌ・ド・ボーヴォワールが後の夫リオネル・ド・ルーレと出会う。シモーヌはソルボンヌ大学に入学。サルトル、後の作家・哲学者ポール・ニザン、後に哲学教師・UNESCO事務局長として知られることになるルネ・マウー(フランス語版)と出会い、ルネ・マウーには「カストール(=ビーバー; 海狸)」というあだ名を付けられ、以後、サルトルからも「カストール」と呼ばれる。親友ザザはモーリス・メルロー=ポンティと親しくなるが、両親に結婚を反対され、ウイルス性脳炎で翌1929年に死去する間際にも苦しんでいた。ボーヴォワールは心に深い傷を残したこの事件を題材にした小説『離れがたき二人』(Les Inseparables)を1954年に書いたが、サルトルから出版に値しないと判断されたこともあって公表されず、66年後の2020年に刊行された(2021年早川書房刊の日本語訳「訳者あとがき」)。さらに自伝小説(回想録)『娘時代』を書く契機になり、同著でザザの両親のブルジョワ・カトリシズムを非難している。
必然的な愛 ― 終生の伴侶サルトルパリ6区ラスパイユ大通り136番地にあるバルザック記念像前のボーヴォワールとサルトル (1920年代)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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