シモーニデース
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シモーニデース
誕生紀元前556年頃
ケオス島
死没紀元前468年
シュラクサイ
職業詩人
活動期間古代ギリシア
ジャンル抒情詩
親族バッキュリデース(甥)
ウィキポータル 文学
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ケオスのシモーニデース(古希: Σιμων?δη? ο Κε?ο?, Sim?nid?s, 紀元前556年頃 - 紀元前468年)は、古代ギリシア抒情詩人である。長母音を省略してシモニデスとも表記される。ケオス島(現ケア島)のIoulisの生まれ。ヘレニズムアレクサンドリアの学者たちは、シモーニデースをサッポーピンダロスらと一緒に9歌唱詩人の一人に数えた。甥のバッキュリデースも詩人である。
生涯

若い頃のシモーニデースは詩と音楽を教え、アポローンの祭のためのパイアンを作っていた。しかし、故郷では自分の才能を活かせないと気付き、文学のパトロンだったヒッパルコス (en) 、ペイシストラトスの子)の宮廷のあるアテナイに移り住んだ。紀元前514年にヒッパルコスが暗殺されると、シモーニデースはテッサリアに身を退き、その土地の名士であったスコパス(スコパース)家ならびにアレウアス家 (en) の保護と援助を受け、悠々と暮らした。

キケロはその著書『弁論家について』(ii. 86)の中で、シモーニデースとスコパス家との関係の終わりについて、こんなことを書いている。シモーニデースのパトロンだったスコパスが戦車競走で勝利した。その祝宴で、シモーニデースは勝利を祝うオード(頌歌)を歌ったのだが、カストルとポリュデウケスの讃美に多くを割かれていたので、スコパスは立腹した。報酬を支払う段になって、スコパスは一部しか払わず、残りは双子の神(カストルとポリュデウケス)に請求しろと言った。そのすぐ後、2人の若い男がシモーニデースに会いに来たと聞かされて、シモーニデースが宴会の部屋を出たら、天井が崩落して、スコパスと客たちを押しつぶした[1]。瓦礫を掘り返している間、シモーニデースは死んだ客たちの身元を調べるよう頼まれた。シモーニデースは、部屋を出る前に人々がテーブルのどこにいたか、その座(loci)の記憶から、身元を特定することができた(座の方法(英語版))。カストルとポリュデウケスが残金の代わりに自分の命を救ってくれたのだとシモーニデースは感謝して、後に、この経験を「記憶の劇場」(memory theatre)または「記憶宮殿」(memory palace)に展開させた。この情報処理の方法は、ルネサンス期まで広く社会に口伝された。[2]シモーニデースはこうした古代の記憶術の方法を発明したと信じられている[3]

マラトンの戦い紀元前490年)の後、シモーニデースはアテナイに戻ったが、すぐにシケリアに行った。シラクサ王ヒエロン1世に招かれたからで、シモーニデースは残りの人生をその宮廷で過ごすことになる。

学者としてのシモーニデースの評判は、次のような伝説からもわかる。母音 (ε, η, ο, ω)の長短の区別を導入したのはシモーニデースで、以後それは、イオニアのアルファベットに取り入れられ、エウクレイデスがアテナイのアルコンだった時代(紀元前403年)に一般的に使われるようになった、というのである。

シモーニデースの人気はそれだけにとどまらず、政治の世界においても影響力を持っていた。たとえば、両軍が激突する前夜、ヒエロン王とTheroを仲裁させたのはシモーニデースだったと言われている。シモーニデースはアテナイのテミストクレススパルタのパウサニアス両将軍とは個人的な友人で、ペルシア戦争について歌ったシモーニデースの詩がナショナリズム愛国心に強い衝撃を与えたのは疑いない。

詩に関しては、シモーニデースは自分の詩に対してほとんどどんな値段でも要求できた。後世のアリストパネス以降の著作家たちは、シモーニデースは強欲だったと主張しているが、おそらく根拠が無いわけではないと思われる。ヒエロン王の妃がシモーニデースに金持ちに生まれるのと天才に生まれるのとどちらが良いか尋ねたところ、シモーニデースはこう答えた。「金持ちです。なぜなら、天才はいつでも金持ちの戸口におりますから」[4]。別の人が、讃美の詩を書いてほしいが、感謝なら山ほどするものの、金は出せない、と言った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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