シモン・ド・モンフォール_(第5代レスター伯爵)
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シモン・ド・モンフォール
Simon IV de Montfort
第5代
レスター伯
モンフォール=アモーリー領主
トゥールーズ伯
ベジエおよびカルカソンヌ子爵
シモンのシール
在位レスター伯:1206年 - 1218年
トゥールーズ伯:1215年 - 1218年

出生1164年から1175年の間
フランス王国モンフォール=ラモーリー
死去1218年6月25日
トゥールーズ伯領、トゥールーズ
埋葬カルカソンヌ、聖ナザリウス・聖セルサス大聖堂 → モンフォール=ラモーリー
子女一覧参照
家名モンフォール家
父親シモン・ド・モンフォール(フランス語版)
母親アミシー・ド・ボーモン
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シモン・ド・モンフォール (Simon IV de Montfort、1164年から1175年の間 - 1218年6月15日)は、中世フランスモンフォール=ラモーリー領主であり、第5代レスター伯であった人物である。アルビジョワ十字軍の重要人物の1人。シモン4世・ド・モンフォールと呼ばれることもあり、シモン5世・ド・モンフォールとすることもある[N 1]
生涯
血統

イル=ド=フランスの男爵家、モンフォール=ラモーリー家の一員として生まれた。父はモンフォール=ラモーリー領主で同名のシモン・ド・モンフォール(フランス語版)、母はアングロ=ノルマン貴族の娘アミシー(第3代レスター伯ロベール・ド・ボーモンの娘)である。

父が亡くなると、シモンはモンフォール=ラモーリー家の頭領となったが、様々な理由からすぐにはフランス=イングランドの対立関係に参加しなかった。第一に彼自身の慎重さのため、第二に軍事遠征はイル=ド=フランスではなくフランドル伯領で行われていたため、最後にレスター伯領に対する自分の権利が失われないようにするためである。実際、彼は1188年にジゾール(英語版)で行われたフランス王フィリップ2世(尊厳王)とイングランドヘンリー2世の会談において政治的に姿を見せたのみである。

1190年頃、エクアン領主およびモンモランシー男爵ブシャール5世の娘アリックス(fr)と結婚[1]。アリックスは、フィリップ2世の最初の王妃イザベル・ド・エノーとはいとこの間柄であった。
聖地十字軍

1199年、エクリー・シュル・エーヌで騎乗試合に参加した際、シャンパーニュ伯ティボー3世の一団に加わり、第4回十字軍に参加した。十字軍はすぐにヴェネツィア共和国が主導権を握り、アドリア海沿岸のザーラ(当時はハンガリー王国の保護下。現在のザダル)に向かった。ローマ教皇インノケンティウス3世キリスト教徒を攻撃しないよう特に警告していた。シモンはザーラ攻撃に反対し、これではフランク人たちはヴェネツィアを支持できないと主張し、ザーラの代表団が十字軍側に降伏しないよう待った。その結果、代表団はザーラへ戻り、都市の抵抗は続いた。フランク人領主の大部分はヴェネツィアに借金をしていたので、彼らはザーラ攻撃を支持し、1202年に都市は陥落して略奪された。シモンはこの行いに参加せず、最も率直に批判した1人だった。彼と彼の仲間たちは、アレクシオス4世アンゲロス東ローマ帝国の帝位につけるために十字軍がコンスタンティノープルに向かう決定が下されると、十字軍から離脱した。代わりに、シモンと追従者たちはハンガリーイムレの宮廷へ旅し、そこからアッコンへ向かった。

1204年、第4代レスター伯ロベール(シモンの叔父)が嫡子のないまま没し、母アミシーが領地の半分を相続してレスター伯領の請求を行った。領地の分割は1207年初頭に行われ、最初に権利はアミシーとシモンに譲渡された。しかし、イングランド王ジョン(欠地王)は自らがノルマンディーアンジューメーヌポワトゥーに持つ領地をフランスに占領されると、フランスの男爵たちがイングランドに持つ全ての所領を没収した。
アルビジョワ十字軍

シモンはフランスの領地に滞在していたが、再び十字架を掲げキリスト教徒の異端征伐に向かうことになった。1206年頃、友人のヴォー・ド・セルネー修道院長ギーが、ドミニコ・デ・グスマンやピエール・ド・カステルノー(英語版)といった聖職者たちともに、オクシタニアの異端カタリ派を改宗させるべく説教するよう要請された。彼らの伝道活動はほんのわずかしか成果を得られず、教皇特使カステルノーはトゥールーズ伯レーモン6世破門した。ところがカステルノーは1208年1月14日暗殺された。インノケンティウス3世はカタリ派征伐の遠征隊派遣を決め、聖地で戦った者と同じく、免罪符と特別なはからいをカタリ派征伐の戦士に与えることにした[N 2]ポブレー修道院の修道士アルノー・アモーリーと院長ギーはフランス王国内を歩いて回り、男爵たちに『十字軍』に参加するよう説いた[N 3] · [2]

シモンは1209年のアルビジョワ十字軍最初の遠征に加わった。自らの領土に対する脅威を避けるため、1209年6月18日に名誉ある振る舞いを表明したレーモン6世も十字軍に参加した[3]。十字軍の騎士たちはリヨン近郊で集会を開き、アモーリー指揮のもと南部へ向かった[N 4]。レーモン6世が十字軍の一員となれば、もはや目的はトゥールーズ伯領ではなく、カタリ派が多く暮らす、ベジエおよびカルカソンヌ子爵レーモン=ロジェ・トランカヴェル(fr)の領地であった[4]。ベジエおよびカルカソンヌ陥落の後、トランカヴェルは子爵位から追われ、参加した男爵たちの中から後継者が選ばれた[N 5]。シモンが選ばれ、トランカヴェル家から没収した領地を継承した。彼はトゥールーズ伯の領土を征服し、これによりオクシタニア最大の地主となった。1209年11月10日、幽閉されていたレーモン=ロジェ・トランカヴェルが急死した。モンフォールの敵たちが、彼がトランカヴェルを暗殺したと噂を広めた。オクシタニアで反乱が起き、シモンのいとこにあたるマルリー領主ブシャールが、トランカヴェル家家臣ピエール・ロジェ・ド・カバレに捕えられたうえ、城のいくつかは包囲され、オクシタニア側とその軍勢によって奪取された。シモンはいくつかの都市にしか頼れず、オクシタニアを完全に征服する準備を行わなければならなかった。この時、妻のアリックス・ド・モンモランシーは軍勢を連れて夫に合流している。

シモンはその冷酷さで恐れられた。シモンの残虐行為を、20世紀と21世紀の人々が野蛮だと思うだろうが、彼の行為は13世紀においては当然のことだった。シモンは大勢のカタリ派信徒を火刑にした。彼は、カタリ派を異端と非難する教会の、世俗権力者としてふるまった。1210年、彼はミネルヴの村で改宗を拒否したカタリ派住民140人を火刑にした(改宗した者の命は救った)。


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