シミバレー
City of Simi Valley
シミバレー市の周辺
旗章
位置
カリフォルニア州におけるベンチュラ郡(左図)およびシミバレーの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯34度16分16秒 西経118度44分22秒 / 北緯34.27111度 西経118.73944度 / 34.27111; -118.73944
シミバレー(英: Simi Valley)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州南部のベンチュラ郡にある都市。シミバレーという名の低地に位置している。人口は12万6356人(2020年)。ロサンゼルス大都市圏の中にあるが、ロサンゼルスとの間にはサンフェルナンド・バレーがある。
シミバレーは、2004年に死去した元大統領ロナルド・レーガンが葬られているロナルド・レーガン大統領図書館がある所として知られている。1992年にはロサンゼルス暴動の引き金になったロドニー・キング事件で、告発されたロサンゼルス市警の4人の警察官を無罪放免することになった裁判が行われメディアの注目を浴びた。
シミバレー市はサンタスザーナ山脈とシミヒルズに囲まれ、サンフェルナンド・バレーの西、コネホ・バレーの東にある。西のベンチュラ郡にある大都市や東のロサンゼルス市とサンフェルナンド・バレーに通勤する住民が大部分のベッドタウンである。
シミバレー市はアメリカ合衆国も最も安全な都市リストにこれまで何度も選ばれてきた[2]。 シミバレー市となった地域には、1万年から1万2千年前にサリナス・バレーからサンタモニカ山脈までこの地域の大半にも入っていたチュマシュ・インディアンが住んでいた[3]。およそ5000年前にドングリを加工し、湿地植物を収穫するようになった。さらに2000年後、狩猟と漁労の技術が改良され、人口がかなり増加した[4]。この人口急増から間もなく、石の貨幣が流通するようになり、気候変動による有効資源の変動に対しても生存していけるようになっていった[3]。シミバレーという名前はチュマシュ族の言葉「シミイ」を語源とし、この地域によくある筋を引き糸のような雲を意味すると言われている[5]。 ランチョ・シミ、またの名をランチョ・サンホセ・デ・ヌエストラ・セニョーラ・デ・アルタガルシア・イ・シミと呼ばれた土地は現在のベンチュラ郡東部とロサンゼルス郡西部の広さ113,000エーカー (452 km2) のものであり、1795年にスペイン総督のディエゴ・デ・ボルシアからフランシスコ・ハビエル・ピコとその2人の兄弟、パトリシオ・ピコとミゲル・ピコに与えられたスペインの土地特許によるものだった。ベンチュラ郡とサンタバーバラ郡の中でスペインからの土地特許としては最も初期のものだった。ランチョの名前「シミ」は、スペイン人が入る前にあったチュマシュ族インディアンの集落の名前を採った[6]。ここは最大級の土地区画だったが、メキシコがスペインから独立した後には土地がより自由に分割されるようになった。ロバート・P・ストラシアンの家屋となったシミ・アドベ・ストラシアン・ハウスがこのランチョの中心として機能した。 サンタバーバラ・プレシド(砦)の大尉、ホセ・デ・ラ・グエラ・イ・ノリエガがカリフォルニアで大量の土地を手に入れて牛を育て始めており、1842年にピコ家からランチョ・シミも買収した。1858年にホセ・デ・ラ・グエラが死んでから数年後、このランチョはペンシルバニア鉄道の社長であるトマス・アレクサンダー・スコットが率いるフィラデルフィア・カリフォルニア石油会社に売却された。ここで大量の石油が発見されなかったので、スコットはランチョを売却し始めた。1887年、ランチョの一部が新しく結成されたシミ土地水会社に買収された[7]。サンタスザーナ・デル・ランチョ・シミと呼ばれたこの小さな開拓町は19世紀後半に繁栄し、スペイン語を話す住民が大勢を占めたが、イングランド系アメリカ人が到着して入植し、農場、果樹園および低木が支配的な土地の外観は1970年代まで続くことになった。 郵便用の住所は短期間シミポリスと呼ばれたが、間もない1910年には短縮されてシミと呼ばれるようになった。1890年には町の北東部に最初の公立学校が建設されたが、1926年には解体された。
歴史
先コロンブス期
植民地時代のランチョと町の成長