シベリア抑留
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舞鶴港に上陸する、抑留からの帰還兵(1946年)

シベリア抑留(シベリアよくりゅう、英:The internment in Siberia[1])は、第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリア、カザフ、キルギス、ウズベクなどソ連各地、モンゴル人民共和国モンゴル抑留)などソ連の衛星国労働力として連行され、長期にわたる抑留生活、厳寒・飢え・感染症の蔓延る過酷な強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する総称である。男性の被害者が多いが女性も抑留されている[2][3][4][5]

ソ連対日参戦によってソ連軍に占領された満洲朝鮮半島北部、南樺太千島列島などの地域で抑留された日本人は約57万5千人に上る[6][4]。厳寒環境下で満足な食事も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、約5万8千人が死亡した[7][4]。このうち氏名など個人が特定された数は2019年12月時点で4万1362人[8]。これは全抑留者の約1割で、これは日本国内に連行されてきた連合軍捕虜の死亡率とほぼ同程度という。ただし、この死者の多くが初年目の冬に集中している。2年目からは待遇が改善されて、死亡率は大幅に減っている。但しアメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという[9]

このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言に反するものであるとして、日本側関係者からは批判される。ソ連の継承国であるロシア連邦エリツィン大統領1993年平成5年)10月に訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した[10][11]。ただし、ロシア側は、移送した日本軍将兵は戦闘継続中に合法的に拘束した「捕虜」であり、戦争終結後に不当に留め置いた「抑留者」には該当しないとしている[12]

シベリア抑留者の集団帰国は1956年に終了し、ソ連政府は1958年12月に「日本人の送還問題は既に完了したと考えている」と発言した[13]。だがソ連占領下の南樺太で逮捕されるなどしてソ連崩壊後まで帰国が許されなかった民間人もおり、ソ連政府は日本政府による安否確認や帰国の意向調査を妨害し続けた[13]

「シベリア抑留」という用語が使われるようになったのは、1979年の「全国抑留者補償協議会」発足の時だとされる[14]

2015年、舞鶴引揚記念館が収蔵する抑留資料が国際連合教育科学文化機関の「世界の記憶」として登録された[15]
背景「大粛清」、「ラーゲリ」、および「グラグ」も参照

ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人に過酷な強制労働が課せられたが、これは労働力不足を補う側面もあった[16]スターリン体制下の1930年代以降は強制収容所ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。

初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56 %が死亡した[17]

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談ウィンストン・チャーチル炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[18][19]ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[20]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年ジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[21]

これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特に独ソ戦で捕虜となったドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[22]
経緯
ソ連軍侵攻と停戦

第2次世界大戦末期の1945年昭和20年)8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、日本の実質的支配下にあった満洲帝国との国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満洲および当時日本領だった朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。

8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連とヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満洲においては旅順租借権の回復および大連港や中東鉄道南満洲鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[23]


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