シブがき隊
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シブがき隊
出身地
日本
ジャンルJ-POP
活動期間1982年5月5日 - 1988年11月2日
レーベルCBS・ソニー
事務所ジャニーズ事務所
共同作業者シブ楽器隊(バックバンド

旧メンバー

布川敏和(ふッくん)

本木雅弘(もッくん)

薬丸裕英(やッくん)

シブがき隊(シブがきたい)は、かつて存在した布川敏和本木雅弘薬丸裕英の3人からなる旧ジャニーズ事務所所属の男性アイドルグループ
メンバー.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目ではを扱っています。閲覧環境によっては、色が適切に表示されていない場合があります。

プロフィール愛称イメージカラー[1]
布川 敏和
(ふかわ としかず) (1965-08-04) 1965年8月4日(58歳)、B型神奈川県川崎市出身ふッくん    イエロー
本木 雅弘
(もとき まさひろ) (1965-12-21) 1965年12月21日(58歳)、A型埼玉県桶川市出身もッくん    レッド
薬丸 裕英
(やくまる ひろひで) (1966-02-19) 1966年2月19日(58歳)、B型東京都武蔵村山市出身やッくん    ブルー

歴史

1981年4月から放送のTBSドラマ『2年B組仙八先生』に生徒役で出演中の、既にジャニーズ事務所所属の薬丸・布川・本木の3名により結成される。結成当初は「仙八トリオ」、「悪ガキトリオ」などと呼ばれていたが、1981年の夏に雑誌『セブンティーン』の一般公募によって『シブがきトリオ』に決定(グループ名の由来は「シブい悪がき」を意味[2])。その後まもなくして『シブがき隊』に改められた。当時の芸能界では三人組に「?トリオ」と名付けることが乱立しており[3]、目立たせるため所属事務所の社長・ジャニー喜多川があえて「トリオ」から「隊」へと改名を施した。

『2年B組仙八先生』放送終了直後の1982年5月5日、「NAI・NAI 16」で歌手デビュー。デビュー当時のキャッチフレーズは「YMF 正面突破」[注 1]。同期の女性アイドルには小泉今日子早見優松本伊代堀ちえみ三田寛子中森明菜・後に薬丸の妻となる石川秀美ら「花の82年組」がおり、男性アイドルながらシブがき隊も「花の82年組」に入れられることもある。同年の『第24回日本レコード大賞』では最優秀新人賞を受賞[4]。翌年以降もヒット曲を幾つも繰り出し、オリコンシングルチャートやテレビの歌謡ランキング番組では10位圏内へ常に入り込み、同事務所の先輩で先行デビューしていた田原俊彦近藤真彦らに続き時代を代表する男性アイドルとなっていった。

シブがき隊の特徴としては、ジャポニズムの曲調が挙げられる。当時のアイドル界では、歌や踊りの実力よりもタレント個人がもつ魅力がより重視される傾向にあった。シブがき隊も歌や踊りのレベルをカバーするべく、楽曲の企画性(ノベルティソング)で話題を集める手法をとる。ジャニー喜多川が米国由来の芸能音楽を事務所の基本方針に据えていたため、米国から見た日本、すなわちジャポニズムの楽曲が多数制作された。この流れは後輩の忍者に受け継がれている[5]

歌手活動のほか、映画、CM、テレビドラマ、バラエティ番組など多岐にわたって活動。4年半続いたテレビ東京で放送の歌謡バラエティ番組『ザ・ヤングベストテン』後継番組『レッツGOアイドル』では司会進行も担うなどしてトーク術とコント力が身についていく。田原・近藤らとともに80年代前半の男性アイドルシーンを圧倒的にリードしていったが、1984年になると、前年デビューのチェッカーズや当時低迷していた老舗芸能事務所の渡辺プロダクションが起死回生に仕掛けた大型新人の吉川晃司らが台頭してくるようになる。その責任感の強さから仲間内でリーダーと呼ばれていた薬丸はそれらのライバルに闘志を燃やしていて距離感を取っていたが、楽天的な布川や本木は逆にチェッカーズや吉川と意気投合して仲良くなり[6]、彼らが住んでいた合宿所にも遊びに行っていた。その為、薬丸は「ライバルと仲良くしている二人が信じられない」と憤慨し、そのことを本木と布川に叱責したことで本木、布川と不仲になってしまい、その後2対1の「いびつなトライアングル」状態となってしまった[7]

1985年末、シブがき隊と同時期に結成された同じ事務所所属の三人組男性アイドル・少年隊が満を持して歌手デビュー。同じ土俵へ上られたことにより、シブがき隊が持ち合わせていなかったその歌唱力とキレの鋭いダンスを目の当たりにして、メンバーらは「こりゃ絶対勝てないな」と思ったという。1986年、デビュー年から4年連続で出場してきた『NHK紅白歌合戦』に少年隊と入れ違いで落選したことが示すように[注 2]、日の出の勢いであった少年隊に対し、シブがき隊が出すシングルは80年代前半よりも人気の面で勢いを失っていき、それまでのようにオリコンシングルチャートやランキング番組で10位圏内に入ることがだんだんと叶わなくなっていった。また、デビュー以来必ず三人一緒であったグループ活動から、1986年3月放送の布川単独出演のテレビドラマを皮切りに、各々がソロ活動をするようになっていく。ただし、それはテレビドラマとバラエティ番組出演に限られたことで、歌手活動においてはソロで行う者はなく、後の解隊(解散)まで三人一緒のシブがき隊としてシングルをコンスタントにリリースし続け、歌謡番組への出演も疎かにしなかった。

1988年8月7日の東京厚生年金会館におけるコンサートでグループの解散を示す解隊宣言を発表。同年11月2日代々木第一体育館におけるコンサートをもって解隊した。通常コンサートでは写真撮影は禁止であるが、この解隊コンサートに限り写真撮影を解禁、観客席からは無数のフラッシュが光り続けたという。当時、各々ソロでの活動に比重が置かれるようになってグループとしての活動は霞んではいたが、解隊時はそれを記念して三人一緒の活動が設けられ、解隊の報告をするために幾つもの歌謡番組に出演したほか、三人が主演となったドラマも作られ放送されるなど、賑やかにその最後の花道を飾った。
エピソード

当初本木がセンターの立ち位置だったが、歌手デビュー時に薬丸がセンターになり、途中から本木がセンターに戻った。

デビュー時センターに立っていたことや、責任感の強い性格から、薬丸は他のメンバーに「リーダー」と呼ばれることがあった。しかし実際には、特にリーダーは誰だということは決まっていなかった。

バックバンドは「シブ楽器隊」という名前であった。バンド名は事務所の社長・ジャニー喜多川が命名。

ZOKKON 命」のイントロのフレーズにアメリカのロックバンド「ナイト・レンジャー」の代表曲「Don't Tell Me You Love Me」(当時の邦題/炎の彼方)のイントロのリフをそのまま使った事が音楽雑誌等でネタにされることがあった。

1985年3月16日、フジテレビのバラエティ番組『これがトリックだ! III』の企画“オートバイ激突トリック、恐怖のクレーン・トリックに命がけで挑戦”のロケが品川区にある船の科学館駐車場で行われた。クレーンで吊り上げられたゴンドラからゴンドラへ瞬間移動するという内容で、当時、オートバイの免許を有していた薬丸が挑戦することになった。ロケ中盤、地上8メートル付近に吊られたゴンドラの蓋が開いた時、バイクの固定具が外れて、バランスを崩した薬丸はコンクリートの地面に落下。日本大学病院へ救急搬送された。ヘルメットを装着していたため、幸い頭部には大きな損傷はなかったが、右橈骨遠位端骨折、及び、尺骨茎状突起骨折と診断され入院した。翌17日からコンサートツアーが始まり、本木と布川の二人でステージを務めた。しかし、3人のステージを楽しみにしていたファンの失望は大きく、MCも盛り上がりに欠けたという。そこで、布川は新たに盛り上がる曲を作ろうとシブ楽器隊のベーシスト・葛口雅之と、当時まだ浸透していなかったラップ調の楽曲を制作した。これがのちに大ヒット曲となる「スシ食いねェ!」の基になった[8]
解隊の経緯・その後

解隊は、薬丸が「今後の方向性どうする?」と本木と布川に相談した際[9]、元々俳優業に興味のあった本木が「業界そのものを辞めて、パリでもどっかでもいって、皿洗いでも何でもいいからしたいから、二人(薬丸と布川)に『辞めてもいいか』と言った」のがきっかけとなった[10]


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