シネマトグラフ
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フランスのリュミエール研究所(フランス語版)に展示されているシネマトグラフ。シネマトグラフ(右側の装置)で映写をしている様子。人物がクランク・ハンドルを回して装置を動かし、フィルムはレンズの前を上から下へ送られる。左側の装置は映写光源の幻灯である。

シネマトグラフ(フランス語: cinematographe)は、1895年フランスリュミエール兄弟が開発した初期の映画装置である。1台で撮影・映写・現像を行うことができる簡便な装置で、現在まで続くスクリーンに動く映像を映写する映画の基本的形式を決定づけた[1]。リュミエール兄弟はトーマス・エジソンキネトスコープなど、同時代もしくはそれ以前の動く映像装置の影響を受けてシネマトグラフを開発し、1895年2月13日に最初の特許が交付され、3月22日にはパリの国立工業奨励協会で最初の上映が行われた。同年12月28日にはパリ中心部にあるグラン・カフェの地階「サロン・アンディアン」で最初の商業上映が行われ、一般的にはこの日が「映画の誕生」と見なされている。

1896年にリュミエールの会社はシネマトグラフを大規模に事業化し、シネマトグラフを操作する技師を世界各地に派遣して上映と撮影を展開した。わずか1年半ほどでシネマトグラフはイギリスイタリアロシアスペインアメリカカナダメキシコオーストラリアインド日本などの国々に伝播し、世界中で1400本を超す作品が撮影された。シネマトグラフによって映画史が始まった国も多く、その地の映画産業の発展に影響を与えた。日本では、1897年2月15日に大阪の南地演舞場で初上映されたが、これは日本初のスクリーン映写式による映画上映とされている。1897年頃には世界中で多くの映画装置が市場に出回り、映画製作や興行も盛んに行われるようになったが、それによる競争激化の中でシネマトグラフは徐々に衰退した。
名称

シネマトグラフという名称は、ギリシャ語で「運動」を意味する「kinematos (κινηματικ??)」と、「記録」を意味する「graphein (γραφ?νη)」を組み合わせた言葉である[2][3]。この名称は、1892年にフランスの発明家レオン・ブリーが特許登録した動く映像装置に初めて使用されたが[注 1]、ブリーは毎年支払わなければならない特許維持料を1回しか支払わなかったため、1894年末にはシネマトグラフの名称の独占権が失効し、他の人物もこの名称を使うことができるようになった[4]。その後、リュミエールがこの名称を自分たちの装置名に採用したが、映画史家のジョルジュ・サドゥール(フランス語版)によると、あくまでもリュミエールは他の発明者と同じように、名前をギリシャ語の言葉から求めたに過ぎなかったという[5]。リュミエールのシネマトグラフが普及すると、同時代の他の映画装置にもシネマトグラフの名称が使われるようになり(シネマトグラフの衰退を参照)、転じて映画という概念を示す言葉として一般名詞化した[6][7]。映画を指す世界共通語である「シネマ」も、シネマトグラフから派生した言葉である[8]
仕組みシネマトグラフのフィルム送りの仕組みを示すアニメーション。

シネマトグラフの外観は硬材製の小さな箱で、重さは5キロしかなかった[9][10]。操作はクランク・ハンドルによる手動で行われ、電気を使用する必要がなかった[11]。そのためシネマトグラフは鞄に入れられて、自由に持ち運ぶことができた[9]。さらに1台の装置で撮影・映写・ポジへの焼付け(現像)のすべてを行うことができ、サドゥールはその簡便さを「スタジオや焼付け工場や映写室を同時に兼ね備え、世界の到るところでも活動できる一種の魔法の旅行鞄」と表現している[11]

撮影と映写は、フィルムを1コマずつ瞬間的に停止しては送るという間欠機構により実現される[12][13]。シネマトグラフの間欠機構は、長方形のフレームの内部で移動する偏心カムを使用したもので、偏心カムによって動くフレームの先に付いている爪でフィルムを1コマずつかき送るという仕組みである[14]。間欠機構によるフィルム送りは以下の手順で行われる[12][14]
フィルムの1コマがレンズの前で停止し、その際に露光または映写を行う。

シャッターが閉じられ[注 2]、その間に爪先の2本のピンがフィルムの両端に付けられたパーフォレーションにはまり込み、1コマ分かき送る。

映写をする時は幻灯を光源に使用し、シネマトグラフの開口部を通して背後からフィルムをスクリーンに投影した[12]。シネマトグラフと幻灯の間に水を入れたフラスコを置いて映写することもあったが、このフラスコは集光レンズの役割と、発火しやすいフィルムにあたる熱を減らす役割を果たした[7][16]。フィルムの駆動速度は毎秒16コマで、これは後にサイレント映画時代のフィルムの標準速度となった[17]トーキーの導入以後は毎秒24コマが標準速度である[18])。この速度によるフィルム送りと急速なシャッターの開閉が行われることでストロボ効果が生まれ、それによりスクリーン上の映像は動く映像として見ることができた[12]

ポジフィルムへの焼付けは、ネガティブフィルムをシネマトグラフの中の未露光のフィルムの上に正確に重ね、再露光して複写することで作成できた[12]。開発者のルイ・リュミエールによると、太陽に照らされた白い壁を光源に使用することで、ポジフィルムの焼付けをすることができたという[19]

シネマトグラフで使用するフィルムは、長さが17メートルの35ミリ幅のセルロイド・フィルムで、1作品の上映時間は約50秒しかなかった[20][21][22]。このフィルムの長さはシネマトグラフのフィルム・マガジンに収納できる最大容量だった[20]。フィルムのパーフォレーションは、1コマの両側に正円のものを1個ずつ付けるという規格を採用したが[2]、当時はトーマス・エジソンキネトスコープが採用した、1コマの両側に4個ずつ長方形のパーフォレーションを付けるという規格が広く普及したため、1897年頃にシネマトグラフのフィルムは両方の規格に対応できるように作られた[23][24]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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