シネマテークたかさき
Cinematheque Takasaki
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情報
正式名称シネマテークたかさき
開館2004年12月4日
客席数1階58席、2階64席
用途映画上映
所在地〒370-0831
群馬県高崎市あら町202
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度19分25.8秒 東経139度00分25.4秒 / 北緯36.323833度 東経139.007056度 / 36.323833; 139.007056
シネマテークたかさき(Cinematheque Takasaki)は、群馬県高崎市あら町202にある映画館(ミニシアター)。2スクリーンを有する。運営はNPO法人たかさきコミュニティシネマ。
歴史
年表
2004年(平成16年) - NPO法人たかさきコミュニティシネマ設立。代表理事は茂木正男。
2004年(平成16年)12月4日 - 常設映画館としてシネマテークたかさきが開館。
2007年(平成19年) - 2スクリーン化。
自主上映会ミニシアターの先駆者である東京・渋谷のユーロスペース
昭和50年代には全国的に映画館の観客数が激減し、映画業界は斜陽産業となっていた[1]。電電公社(現NTT東日本)に勤める茂木正男は映画を趣味としており、自身でも8mmフィルムで映画を撮影していた[2]。1980年頃には茂木を代表とする自主上映グループ「メーヴェ」が8ミリ映画の上映会を開催し、若き日の長崎俊一、山田勇男、飯田譲治、山川直人、原將人、山本政志などがこの上映会に参加している[2]。なお、茂木は山本の『闇のカーニバル』(1981年)に飲み屋の主人役で出演している[3]。茂木は各地方の自主上映グループらとも接触し、名古屋シネマテークの倉本徹、シネマ5の田井肇らと交友した[3]。しかし、権利関係の問題で年間10本程度しか上映できない自主上映会に限界を感じ、映画祭の開催を志した[3]。
高崎映画祭(1987-)中央銀座商店街にあったが2003年に閉館したオリオン座詳細は「高崎映画祭」を参照
1987年3月30日から4月5日まで、フランス映画社やユーロスペースから作品の配給を得て、高崎市文化会館・群馬音楽センター・高崎松竹電気館・高崎スカラ座・高崎東宝劇場・高崎東映で第1回高崎映画祭を開催[4][5]。初回には23本の作品を上映し、授賞式にはゲストとして森崎東と倍賞美津子が来訪している[4]。入場料収入、広告協賛、行政からの補助金を開催資金とし、徐々に規模を拡大させていった[5]。
1990年頃にはすでに、10日間程度の開催期間に約30本の作品を上映する映画祭となっていた[6]。1990年にはユーロスペースの堀越謙三と接触し、常設映画館の設立を模索したが、資金面などが難点となった[7]。高崎映画祭は高崎市内の映画館を開催拠点としていたが、1990年代後半以降にはこれらの映画館が相次いで閉館し、映画館ではなく公共ホールなどでの開催を余儀なくされている[7]。しかし、第1回高崎映画祭の開催以降の約15年間に、地元のネットワーク、映画好きのスタッフ、映画業界の人脈など、常設映画館開館に必要な様々なものを得ていった[8]。