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この項目「キュニコス派」は翻訳されたばかりのものです。不自然あるいは曖昧な表現などが含まれる可能性があり、このままでは読みづらいかもしれません。(原文:en:Cynicism (philosophy)20:10, 20 January 2022)
修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2022年2月)
あるキュニコス派哲学者の像(カピトリーノ美術館所蔵)

キュニコス派(キュニコスは、英語: Cynicism、古代ギリシア語: κυνισμ??)とは、アンティステネスを開祖とするヘレニズム期のギリシア哲学の一学派。小ソクラテス学派の一つ。犬儒派(けんじゅは)とも呼ばれる[1][注釈 1]

キュニコス派にとって、人生の目的とは自然に与えられたものだけで満足して生きることにある[3]。理性的生物として、厳格な鍛錬を積んだり、富・権力・名声といった従来のあらゆる欲求を放棄して自分達にとって自然な暮らし方をすることで、人々は幸せを得ることができるとした。その代わり、彼らは一切の所有物を持たない簡素な生活を送ることになった。

これらのテーマを概説した開祖の哲学者がアンティステネスで、彼は紀元前5世紀後半にソクラテスの弟子でもあった。彼に続いたのが、アテナイの路上に置かれた甕の中で生活していたとされるシノペのディオゲネスである[4]。ディオゲネスはキュニコス派思想を論理的極限まで採用し、典型的なキュニコス派哲学者と見なされるようになっていった。彼に続いたのが、アテナイで貧しいキュニコス派の生活が送れるようになるため莫大な財産を手放したとされるテーバイのクラテスである。

紀元前3世紀以降にキュニコス派が徐々に重視されるようになり[5]、1世紀のローマ帝国台頭と共に復興を果たした。同帝国のあらゆる都市でキュニコス派が物乞いや説法者として現れるようになり、似たような禁欲主義および修辞学の思想が初期キリスト教に反映された。19世紀までに、キュニコス派哲学ならではの悪い側面を注視することが、人間の動機や行動における誠実さや善良さを信じられず斜に構えがちな皮肉の現代的理解に繋がった。
語源

Cynicという語句は、古代ギリシア語で「犬のような」を意味するκυνικ??(kynikos)そして「犬」を指すκ?ων(kyon)から派生したものである[6] 。キュニコス派が古代に「犬」と呼ばれた理由の説明の一つは、キュニコス派の開祖アンティステネスがアテナイの体育施設キュノサルゲス(この単語が 「白い犬の場所」という意味)で教えを説いたためである[7]。ただし、従来の常識を何ら恥じることなく拒絶して路上生活する彼らの決断に対する侮辱として、「犬」という単語が初期のキュニコス派に投げつけられていたことは間違いないようで、日本での呼称「犬儒派」(犬のような乞食生活をしたから)[8]もここから来ている。特にディオゲネスは「犬」と呼ばれており[9] 、彼はその(生物的な犬との)違いを「他の犬は敵に噛みつくけど、私は友達に噛みつくんだ」と述べて笑っていたようである[10]。後年のキュニコス派もこの言葉を優位なものに変えようと模索しており、後年の解説者は次のように説明している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

キュニコス派がそう名付けられた理由が4つある。第一には彼らの生き方への無頓着さが理由で、彼らは無頓着さを崇拝していて、犬のように人前で食べたり情愛したり、裸足で歩いて、浴槽や辻道で寝ていたからである。第二の理由は、犬が恥知らずな動物で、謙虚にしておらずこちらが優れているとばかりに厚顔無恥なカルト教団を作るためである。第三の理由は、犬が良い門番であり、彼らが自分達の哲学の教義を守っているためである。第四の理由は、犬が友人と敵を区別しうる識別能力ある動物だからである。そのため、彼らは哲学に適した人物を友人として認識し、その人達を親しげに受け入れる一方、そぐわない者達には犬のように吠えることで、それらを追い払っている[11]
哲学

キュニコス派は、あらゆるヘレニズム哲学で最も印象的な学派の一つである[12]。不確実性の時代に、幸福の可能性や苦しみからの解放を人々に与えると主張した。キュニコス派に公式な教義は存在しなかったが、その基本原則は次のように要約できうる[13][14][15]

人生の目標は幸福感(ユーダイモニア)と精神的明晰さ(?τυφια)であり、誤った信念・不用心さ・愚かさ・うぬぼれを意味する文字通り「まやかし(τ?φο?)からの解放」である。

ユーダイモニアは、自然と調和して生きることによって、人間の理性に理解された際に成し遂げられる。

傲慢さ(τφφаа)は誤った価値判断によって引き起こされ、それは否定的な感情・異常な欲望・悪徳な性格の原因となる。

ユーダイモニアまたは人間の繁栄とは、自給自足(α?τ?ρκεια)、超然たる心境(ストア派のアパテイア)、アレテー人類愛パレーシア、人生の栄枯に対する無関心(アディアフォラ)次第である[15]

自然においては無価値の富・名声・権力といった影響から解放される手助けとなる禁欲的な修行(?σκησι?)を通じて、繁栄および明晰さに向かって邁進すること。代わりとして、彼らはポノス(労苦)の生きかたを奨励した。キュニコス派にとって、これは実際の肉体的な仕事を意味しなかったようである。例えば、ディオゲネスは手工業をしないで物乞いすることで生活した。それはむしろ、意図的に困難な生活を選ぶことを意味しており、例えば冬に薄いクロークだけを纏って裸足で歩いていた[16]

キュニコス派は厚顔無恥(αναδεα)を実践し、法律や習慣や人々が当然だと思っている社会的慣習といった社会のノモスを打破する。
キュニコス派は、この金箔張り銅像(2世紀)に見られるヘラクレスを自分達の守護英雄として採用した[17][18]

したがって、キュニコス派は財産を持たず、お金・名声・権力・評判など因習的な価値感を全て拒絶する[13]。自然にしたがって生活する生き方は、生存に必要な最低限の必需品だけを求め、慣習の結果であるどんな需要からも自身を解放させることで人は自由になれるという[19]。キュニコス派は、理想的なキュニコスの象徴たるヘラクレスを自分達の英雄に採用した[17]。ヘラクレスは「ハーデースの番犬ケルベロスを冥界から連れ出した人物であり、犬(呼ばわりされた)人間のディオゲネスにとって特別な訴求点だった」という[18]ルキアノスによれば「ケルベロスとキュニコス派は犬を介して確実に関連がある」という[20]

キュニコス派の生活をおくるには、判断や精神印象を働かせるだけでなく肉体的な鍛錬も不断に行うことが要求された。

(ディオゲネスは)2種類の活動が存在すると言っていた。それは言うなれば、心と身体の活動である。そして後者は、その実践時に相当迅速で機敏な印象を心に形成し、美徳の実践を非常に容易なものにしてくれる。しかし、片方が欠けたひとつでは不完全であり、なぜなら善行の実践に必要となる健康と活力は、心と体の双方に等しく依存するためである[21]

これはキュニコス派が社会から隠遁するという意味ではない。実際のところキュニコス派は公共の視線に完全に晒された中で生活し、また自分達の型破りな振る舞いの結果生じたであろうどんな侮辱に直面しても非常に無頓着であった[13]。キュニコス派はコスモポリタニズムの思想を生み出した。


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