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この項目では、パンクロッカーのシド・ヴィシャスについて説明しています。プロレスラーについては「シッド・ビシャス」をご覧ください。
シド・ヴィシャス
Sid Vicious
セックス・ピストルズ - USAウィンターランド公演
(1978年1月)
基本情報
出生名John Simon Ritchie
生誕1957年5月10日
イングランド
ロンドン・ルイシャム
死没 (1979-02-02) 1979年2月2日(21歳没)
アメリカ合衆国
ニューヨーク州ニューヨーク
ジャンルパンク・ロック
職業ミュージシャン
担当楽器ベース、ボーカル
活動期間1977年 - 1979年
レーベルヴァージン・レコード
共同作業者セックス・ピストルズ
スージー・アンド・ザ・バンシーズ
ヴィシャス・ホワイト・キッズ
フラワーズ・オブ・ロマンス
シド・ヴィシャス (シド・ビシャス、Sid Vicious[1] 1957年5月10日 [2]- 1979年2月2日)は、イングランドのミュージシャン、ベーシスト、パンクロッカー。
同国のパンクバンドである「セックス・ピストルズ」のメンバーとして知られる。バンド解散後に若くして他界した。そのカリスマ性と過激なパフォーマンスに人々は魅了され、波乱に満ちた生涯がパンク・ムーブメントの伝説として語り継がれた[3]。 「ヴィシャス」という芸名は、スティーヴ・ジョーンズが昔飼っていたハムスターの名前が由来。しかし後年、ジョニー・ロットンは「シド・ヴィシャスの元祖はピンク・フロイドのシド・バレットなんです。由緒正しい名を彼に受け継がせたんです」と述べている(シド・バレットが“シド・ヴィシャス”と実際に呼ばれていたかは不明)。 シドはサウスイースト・ロンドンのルイシャムにて父ジョン・リッチーと母アン(1933?96)のもとに生まれた。アンは学校を中退した後イギリス空軍に入隊し、そこでバッキンガム宮殿の衛兵をしていたジョンの父と知り合い、彼の息子ジョンと交際するようになった。アンは出産後イビサへと移住するが、結局ジョンとの結婚は破談となった。1965年にクリストファー・ビヴァリーと再婚し、シドも「ジョン・サイモン・ビヴァリー」と改名した。 元々シドは、セックス・ピストルズの熱狂的なファンの一人であり、ファンの頃からピストルズのギグにて、記者が邪魔でピストルズが見えないと言ってその記者をベルト代わりにつけていた自転車のチェーンで殴るなど、目立った存在だった。同時期に「ポゴダンス」(ライブに合わせ垂直にピョンピョンとジャンプすること)を発明している。シド曰く、発明した理由は「ライブにいる敵を潰すためにジャンプして上から潰す!」とのこと。
芸名の由来
経歴
セックス・ピストルズ
シドとジョニー・ロットンはファッション関係の専門学校時代からの友人でもあった。その縁もあってセックス・ピストルズ初代ベーシストにして唯一の作曲者グレン・マトロックが脱退すると、バンドのマネージャーであったマルコム・マクラーレンの誘いにより、後任のベーシストとなった。当時ピストルズのメンバー間では、スティーブ・ジョーンズとポール・クックは非常に仲が良く、常に行動を共にしており、ポールとスティーブ、グレン、ロットンという対立の構図があった。マネージャーのマルコムは仲を取り持つ事をせず、メンバー同士をいがみ合わせるように流言した。
グレンと折り合いが悪かったジョニーは、グレンの脱退後にスティーブとポールに対して発言権を強めたい目論見もあって親友であったシドをベーシストにと強力にマクラーレンにプッシュしたのである。
なおジョニーは、この件の直前にダムドのフロントマンとしてオーディションを受けており、最終選考まで残っていた。しかし最終選考日に寝坊してすっぽかした為、ダムドのフロントマンになり損ねている。 ジョニー・ロットンが脱退後、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」やエディ・コクランの「サムシング・エルス」、「カモン・エブリバディ」などのカヴァー曲を収録したシングルをリリース。シドの死後にリリースされたライブ・アルバム『シド・シングス』には、「マイ・ウェイ」のスタジオ録音バージョンも収録された。 セックス・ピストルズにおける最後の音楽活動は「ザ・グレイト・ロックン・ロール・スウィンドル」におけるレコーディングである。この頃のシドは、パリでの「マイ・ウェイ」の撮影時も既に重度のドラッグ依存により、正常に行動するのが困難な状態になるまで体は痩せ細り、歌詞を憶えさせて1曲収録するのに1週間近くかかるほどに衰弱していた。 その後は、ピストルズの初代ベーシストであるグレン・マトロックや、憧れであったジョニー・サンダースらと一時的に組み、ライブを行っている。 ただしジョニー・サンダースとのステージでは、同じジャンキーであるサンダースからしても、ドラッグによるシドへの悪影響はステージ上にも及んでおり、そのためライブに対応できない、保てないシドを途中で降板させている。この一件は激しく彼を失意に落とした出来事であると言われている。 1978年、シドはジョニー・ロットンと和解し、2人で新たなバンドを結成する話を持ちかける。ロットンも話に乗っていたのだが、恋人のナンシー・スパンゲンが間に入り、「そのバンドのフロントマンはシドじゃないと」と譲らず、ジョニーが「じゃあ、俺は何をやるのさ?」と問いかけると彼女は「あんたはドラムでもやったらいいわ」と返したため、ナンシーの横暴とドラッグを断てないシドの為に頓挫した。
解散後