シドニー・ゴドルフィン_(初代ゴドルフィン伯)
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初代ゴドルフィン伯シドニー・ゴドルフィン

初代ゴドルフィン伯シドニー・ゴドルフィン(Sidney Godolphin, 1st Earl of Godolphin, KG, PC, 1645年6月15日 - 1712年9月15日)は、イギリスの貴族・政治家。ステュアート朝の5人の王に仕えて出世、アン女王の代では側近として治世の大半を支えた。
生涯
順調な出世

1645年、シリー諸島の総督フランシス・ゴドルフィンとサー・ヘンリー・バークレーの娘ドロシーの息子としてコーンウォールで生まれた。1665年にコーンウォールのヘルストンで下院議員に選出され、イングランドチャールズ2世に引き立てられ1668年にチャールズ2世の妹ヘンリエッタ・アン及びフランスルイ14世との密使として活動(1670年ドーヴァーの密約として成立)、恩賞として寝室付き侍従に任命、翌1669年にコーンウォール内のの鉱山を31年間貸与され、この鉱山により富裕になった。

チャールズ2世の信任は変わらず、1672年英蘭戦争及びオランダ侵略戦争が始まる直前にチャールズ2世からルイ14世への特使としてフランスへ派遣され、1679年に枢密院に入り、第一大蔵卿のハイド子爵ローレンス・ハイド(後のロチェスター伯)・サンダーランド伯ロバート・スペンサーと共に内政の中心人物となった。一方でサンダーランドと共にオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)と連絡を取り王位排除法案の賛成を促している[1]

1675年にトマス・ブラッジの娘マーガレットと結婚したが、1678年にマーガレットは1人息子のフランシス・ゴドルフィンを出産した後に死去、以後再婚しなかった。

1680年に王位排除法案に賛成票を投じたにもかかわらずチャールズ2世からは重用され(同じく賛成したサンダーランドは罷免)、1684年北部担当国務大臣とロチェスターの後任の第一大蔵卿に任命、男爵位を叙爵された。チャールズ2世の弟ジェームズ2世からの信頼も厚く王妃メアリーの侍従に任命され、1685年にロチェスターが第一大蔵卿に復帰すると、代わりに大蔵委員会の委員として財政を担当した。議会がジェームズ2世への600万ポンドの収入を保証した際、ジェームズ2世を支持したルイ14世に見返りに与えた12万5000ポンドの支払いにも関与していた。
名誉革命期

1688年オランダからウィレム3世がイングランドへ上陸(名誉革命)、ジェームズ2世から支持者が次々と離れていく中でジェームズ2世への忠誠を貫き、ウィレム3世の交渉役としてハリファックス侯ジョージ・サヴィルノッティンガム伯ダニエル・フィンチと共にロンドンから派遣されウィレム3世との交渉に当たった。この後亡命を図ったジェームズ2世が捕らえられ、不在のロンドンにはロチェスターが暫定政権を発足させて治安維持に努め、交渉が終わった後に暫定政権に合流、ウィレム3世到着まで準備を整えていった。

ジェームズ2世がフランスへ亡命し、翌1689年にウィレム3世が妻メアリー2世と共にイングランド王ウィリアム3世に即位すると、ジェームズ2世の側近にもかかわらず財務官僚としての手腕を買われ大蔵委員に留まり、1690年に政権と議会が衝突すると3月に辞任したが、ウィリアム3世に説得されて11月に第一大蔵卿として復帰した。1694年ホイッグ党ジャントー)政権が成立した時もトーリー党員として閣僚に選ばれたが、1696年ジャコバイトが企てたウィリアム3世暗殺計画の関係者との告発が出ると、無実と証明されたにもかかわらず辞任した。

1700年に第一大蔵卿に任命され復帰、1701年の総選挙でホイッグ党が優勢になると辞任したが、1702年にウィリアム3世が亡くなり義妹のアンが即位すると第一大蔵卿として政界に戻り、友人のマールバラ公ジョン・チャーチルサラ・ジェニングス夫妻と同じく即位前からのアンとの親交が深かったため政権のトップに立ってアンを支える立場となった。また、マールバラ公夫妻の娘ヘンリエッタと息子フランシスを結婚させていたためマールバラ公との繋がりも強固にしていった[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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