シドニー・ルイス・ギューリック
Sidney Lewis Gulick
1915年以前
生誕 (1860-04-10) 1860年4月10日
マーシャル諸島 エボン
死没 (1945-12-20) 1945年12月20日(85歳没)
アイダホ州 ボイシ
墓地カワイアハオ教会墓地
国籍 アメリカ合衆国
職業牧師、宣教師、著述家、教育者
著名な実績「青い目の人形」を介した日米親善
配偶者カーラ・メイ・フィッシャー[注釈 1]
受賞勲三等瑞宝章
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シドニー・ルイス・ギューリック(英: Sidney Lewis Gulick、1860年4月10日 - 1945年12月20日)は、ユニオン神学校出身のアメリカ人牧師・宣教師。長年キリスト教団体の要職にあって日本人移民排斥の問題に取り組み、いわゆる「排日移民法」の改正運動および米国一般世論に対する対日啓蒙活動、また日米親善を目的とする民間外交に尽力した。滞日通算20年を越える日本通。友情人形、いわゆる「青い目の人形」の贈答活動で知られる。 祖父ピーター・ギューリック
略歴
幼年期をスペイン、イタリアなどの欧州で過ごしたシドニー・ギューリックは、父ルーサーがアメリカ聖書協会極東総代理人[注釈 2] となって横浜へ派遣(1876-1882)されている間[5]、カリフォルニア州のオークランド高校に学び[4]、次いでカリフォルニア大学へ進学、のちダートマス大学に転じて1883年にこれを卒業した[4]。その後3年間ニューヨークのユニオン神学校にて神学を修めブルックリンの教会で牧師となった[6]。翌1887年9月、赴任地の日本へ発つ前日に幼なじみのカーラ・メイ・フィッシャーと結婚[7][8]。
1888年(明治21年)から1894年(明治27年)まで宣教師として熊本に派遣され、伝道の傍ら熊本英学校にて英語の教鞭を執った[6]。1896年から一時休暇にて帰米[8]。翌1897年(明治30年)に再来日してアメリカン・ボードの四国ステーションに赴任し、1904年(明治37年)まで松山女学校で英語教師として教壇に立った[9][5][6]。この間旧制中学や師範学校の教師らとともに校外学習の場を設け、家庭の事情や経済的理由で上級学校へ進めない子弟を対象に英語、初歩の天文学、社会学、進化論なども教えた[10]。その後アメリカ、ドイツ各地を2カ年遊学し、日露戦争後の1906年(明治39年)日本に帰任[6]。以後7年間京都に居住し、同志社神学校神学講座教授(1906-1912)、同志社大学神学部教授(1912-1913)、京都帝国大学基督教講義講師(1907-1913)の職を務め[5]、梅花女学校でも英語を教えた[11][12]。
1913年(大正2年)6月休暇帰米の際、カリフォルニアに勃発した日本移民排斥運動に遭遇、当地に留まり外国人土地法案の阻止に尽力した[6]。「外国人土地法」制定後も移民問題に従事して研鑽し、各国移民の割当制度(次節参照)を考案する[13]。翌年米国キリスト教連盟(英語版)に対日関係委員会が設置されるや幹事(同時に東洋関係委員会幹事)に就任し、「移民割当制」を提唱する著書(『The American Japanese Problem』)の刊行とともにウィルソン大統領をはじめ各界の有力者に対するロビー活動を展開してその普及につとめた[14]。1915年(大正4年)1月一旦渡日し再び帰米、同2月からは萬国キリスト教会国際親善促進同盟米国支部幹事、建設的移民法制定委員会幹事、国際正義仁愛委員会幹事などの要職に就き[14]、その後の約20年間を日本人の移民問題解決および日米親善活動に心血を注いだ[15][16]。また、国際平和会議米国代表(1914年)、パリ講和会議米国キリスト教連盟代表(1919年)、全世界キリスト教徒大会出席(1925年)などに加え、その他多くの国際問題に携って活躍し、特に極東問題に関する著述におけるその主張は識者間において権威あるものとされている[17]。
1934年(昭和9年)7月1日[8] 米国キリスト教連盟を引退し、余生をハワイで過ごしたが、その後も日本のこと、また日米関係の悪化について執筆を続けた[18]。