シトロエン
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シトロエン S.A.
Citroen S.A.

種類ブランド
略称シトロエン
本社所在地 フランス
パリ
設立1919年
業種輸送用機器
事業内容自動車メーカー
外部リンク ⇒http://www.citroen.com/
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シトロエン(Citroen)は、フランスの大手自動車メーカー。現在はステランティス N.V.の一ブランドである。

いち早い前輪駆動方式の採用や、窒素ガスを気体ばねに用いて高圧油圧制御する独自のサスペンション機構「ハイドロニューマチック」の開発をしていたことでも知られる。
沿革戦前のエッフェル塔の「シトロエン」電光広告。1925年アールデコ博の際に登場した。

第一次世界大戦終結直後の1919年、ダブルヘリカルギア(やまば歯車)の製造と大砲用の砲弾製造で財を成したアンドレ・シトロエン(Andre Citroen)が、ヨーロッパにおける自動車の大衆化を目指し、フランス版フォードとなるべく設立した企業である。フランスの自動車メーカーの中では後発組といえる存在であった。最初の工場は軍需工場を転用したパリセーヌ川・ジャヴェル河岸の工場で、現在その場所は「アンドレ・シトロエン公園」になっている。

エンブレム「ヘ」の字状のクサビ形を2つ重ねたもので「ドゥブル・シュヴロン (double chevron)」または「ダブルヘリカルギア」と呼ばれる。これはアンドレ・シトロエンが経営者としてスタートするきっかけになった歯車「シェブロン・ギア(やまば歯車)」の歯形をモチーフにしたものである。

流れ作業方式による小型車・中型車の大量生産で成功を収め急成長したが、やがてアンドレのワンマン経営による過剰投資がたたり、1934年に経営危機に陥り、この際タイヤメーカーのミシュランの系列会社となり、同社の市販車は工場出荷タイヤにミシュラン製タイヤを指定、装着している。

第二次世界大戦後も先鋭的な自動車開発で世界的に注目される存在であり続け、1960年代にはイタリアのフィアットマセラティなどとも提携するが、1970年代には再び経営困難な状況となり、結局1976年からは同じフランスの競合自動車会社プジョーに主導されるかたちで、企業グループPSA・プジョーシトロエンの傘下となっている。それに伴いプラットフォームやエンジンをプジョー車と共通化するようになった。

21世紀初めの現在でもプジョー車とのコンポーネンツ共用の基本方針は変わっておらず、また一時期のような独善的なまでの個性は抑えられるようになってきてはいるものの、依然として系列メーカーであるプジョーとは異なった個性を持つブランドとして存続し続けている。

伝統として、フランス大統領の就任パレードに使用するオープンカーの提供を続けている。その車両は既存の車体を利用したワンオフモデルである。
先進技術

新しい技術をいち早く採用することで知られ、それは「10年進んだ車を20年間作り続ける」と形容された。

創業にあたり、ジュール・サロモンの設計で1919年に発売された1327cc・4気筒車のタイプAは最初の生産車であると共に、フォードの流儀に倣ってヨーロッパで最初の大量生産方式で製造され、当時の他社ではオプションなのが普通な各種付属装備類を標準装備した買い得な自動車でもあった。1919年から2年間に24,000台以上が生産され、当時のヨーロッパでは異例の量産記録を達成した。

1922年に発売された2人乗り「5馬力C型車」(タイプC)、通称「5CV」は543kg・排気量856ccエンジンに3速MTの軽量車だが、60km/hの最高速度と比較的手頃な3,900フランの価格を実現、シトロンとあだ名されたレモンイエローの車体と黒塗装ホイール、良好な運転性(ドライバビリティー)が世界の小型車の歴史に新時代を画し、同時期発売のイギリスのオースチン・7と並び、欧州大手メーカーによる量産型小型車カテゴリー進出の嚆矢となった。運転のしやすい5CVの登場によって、フランスでは初めて自動車が女性に開放されたといわれる[1]

その後は1000cc超の中級車に主軸を移す。1925年に発表されたB12はヨーロッパで最初のオール鋼製ボディを持った大量生産車で、現代では当然となった4輪ブレーキもこの時に導入した。1932年にはモノピースという溶接による一体ボディ構造の8/10/15を発表する。このように1930年代前半までは、常識的な設計ではあるが、アメリカ合衆国で実用化された進歩的自動車技術をいち早く咀嚼してヨーロッパに導入する、という姿勢が顕著なメーカーであった。1921年10月、パリ・モーターショーでの5CV。当時としては廉価な超小型クラスながら上級車種同様な4気筒・3段変速のスペックと洒落たスタイルを備え、市場の人気を得た。

そのベクトルを転じ、強烈な独自性を発揮するようになったのは1933年ヴォワザン社出身の技術者アンドレ・ルフェーブルが入社してからである。一大転機となったのは彼の主導による設計の「7CV」・通称「トラクシオン・アバン」が開発されたことによる。前輪駆動(FF)やモノコック・ボディトーションバー・スプリングなどを、いち早く採用し、1934年に発表されると大きな反響を呼び、同社の「先進性」を市場に印象づけた最初の車となった。しかし同車の短期開発と新工場建設により、会社の経営破綻とアンドレ・シトロエンの経営撤退を招いた[2]トラクシオン・アバン。1934年4月に発売され、独立懸架の前輪、9リッターで100キロメートル走るエンジン、計器盤にはめ込まれた3段変速のギアと低いスタイルを備え、成功を収めた。

1955年には、金属スプリングの代わりに気体ばね高圧オイルを用いる独創的なハイドロニューマチック・サスペンションを装備した「DS」を発表。車高調整とダンパーに使われたオイルは、サスペンションだけに留まらずパワーステアリングやブレーキ、ペダルレスでのクラッチコントロールや遠隔操作でのギヤチェンジにも使われた。この「10年進んだ車」は、果たしてその後「20年間作り続け」られた。

他にも「こうもり傘に4つの車輪」「走る物置」「フランスの民具」とまでいわれ、40年以上も生産された経済車の「2CV」をはじめ、ユニークで独創性に満ちた自動車を多数開発し、世に問うてきた。
広告

創業者のアンドレ・シトロエンは万事派手好きで、広告戦略にも意を砕いたことで知られる。1925年から1936年までの11年間エッフェル塔は「CITROEN」の文字で飾られた(「翼よ、あれがパリの灯だ!」で知られるチャールズ・リンドバーグ大西洋単独無着陸飛行も、この期間の中に入る)。この電飾文字は40km離れた場所からも視認でき、当時のエッフェル塔の代名詞でもあったという。また、飛行機でパリ上空に「Citroen」と描いたこともあった。

ニューモデルを発表すると、同時に生産車の精巧なミニチュアカーを作り販売したが、これは将来の顧客である子どもへのアピールであった。当時の同社の威勢は頂点を極めており、「赤ん坊が最初に覚える言葉はパパ、ママ、そしてシトロエンだ」と豪語するほどであった。

広告においては戦後もセンス溢れる活動を展開し、1965年ルーブル美術館主催のアート展が開かれるなど、芸術的にも評価を受けている。
ロゴマーク

初代(1919年[3]

2代目(1919年[3]

3代目(1932年[3]

4代目(1936年[3])

5代目(1959年[3]

6代目(1966年[3]

7代目(1985年[3]

8代目(2009年[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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