市庁舎
アメリカ合衆国国家歴史登録財
アメリカ合衆国国定歴史建造物
ニューヨーク市歴史建造物
ニューヨーク市庁舎
所在地 アメリカ合衆国
10007 ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区ブロードウェイ260号
座標北緯40度42分46秒 西経74度00分20秒 / 北緯40.7128度 西経74.0056度 / 40.7128; -74.0056
ニューヨーク市庁舎(英語:New York City Hall)は、ニューヨーク市ロウアー・マンハッタン、シヴィック・センターのブロードウェイ、パーク・ロウとチェンバーズ・ストリートの間に位置するシティホール・パーク内にある。建物内には、ニューヨーク市長の執務室、ニューヨーク市議会室などがまだ残っており、アメリカで最も古い市庁舎である。市役所の13の機関は、市庁舎の近くに位置し、世界最大の政府の建物の1つであるマンハッタン市営ビル内にある。
市庁舎は、1810年から1812年にかけて建設され[3]、アメリカの国定歴史建造物、国家歴史登録財にもなっている[2][4][5]。また、外装(1966年)、内装(1976年)は共に、ニューヨーク市歴史建造物となっている[6]。 ニューヨークで最初の市庁舎は、17世紀にオランダ人によって、パール・ストリート73に建設された[7]。2番目の市庁舎は、1700年に建造され、ウォール街とナッソー・ストリートの角に位置していた。アメリカ独立戦争後、ニューヨークがアメリカの最初の首都とされたとき、この建物はフェデラル・ホールと改名されている。新しい市庁舎を建設する計画は、1776年のニューヨーク市議会で早くも話し合われていたが、戦争後の財政難で進行を遅らせていた。議会は、当時市の北端であった今のシティ・ホール・パークを、用地として選択した。 夜の市庁舎 1802年には、市が新しい市庁舎のために、設計競技を開催している。一等賞の350ドルは、ジョセフ・フランソワ・マンギン
目次
1 歴史
2 建築
3 機能
4 地域
5 シティ・ホール駅
6 大衆文化
7 関連項目
8 出典
9 外部リンク
歴史
設計には浪費が多いとされ、市議会が反対して建設は遅れた。これを受け、マンギンとマッコムは、建物の後ろに使われるブラウンストーンのサイズを低コスト化している。ブラウンストーンには、マサチューセッツ州のアルフォード産の大理石が使われ、1954年から1956年にかけて、アラバマ産石灰石と取り替えられている。労働争議や黄熱病などにより、さらに建設が遅れている。市庁舎が開所したのは1811年で、1812年まで公式オープンはしていない。
市庁舎の知事室には、1861年に次期大統領であるエイブラハム・リンカーンが訪れている。また、彼が暗殺された後の1865年には、棺が円形建築物を横切り、階段に置かれている。ユリシーズ・グラントとエルマー・E・エルスワースは、第11ニューヨーク歩兵隊の指揮者と同じく、ドームに置かれた。公式歓迎会が行われる知事室では、19世紀のアメリカの肖像画、ジョージ・ワシントンの机など、貴重なコレクションがある。絵画は、18世紀後半から20世紀にかけて108枚を所有している[8]。その中には、ジョン・トランブルが描いた1805年のアレクサンダー・ハミルトンの肖像画も含まれる。この肖像は、アメリカの10ドル紙幣の肖像画にもなっている。1920年代と1940年代には、新しい絵画が追加された。2006年には、新しいコレクションを選ぶキャンペーンが開催され、美術委員会に選択された47枚の絵画から始まっている。
2003年7月23日午後2時8分、市庁舎は珍しい政治的な暗殺の現場となった。市議会議員ジェームズ・E・ネイビスの政敵であったオトニエル・アスキューは、市議会室のバルコニーからピストルで発砲を始めた。アスキューは2度ネイビスを撃ち、ネイビスは致命的な傷を負った。その後、警官がアスキューに向け発砲した。アスキューとネイビスは、金属探知器を通らず、建物へと入っていたことが判明し、マイケル・ブルームバーグ市長は、セキュリティー・ポリシーを改善し、必ず金属探知器を通らないと建物に入れないシステムとなった[9]。
建築 アメリカ歴史的ビル調査が行われた市庁舎。右側の背景に、マンハッタン市営ビルがある。 1868年の議員委員会室。
1810年から1812年にかけて建設された市庁舎は、マンギンとマッコムにより設計されたが、下記の有名な建築家により、何度か改築されている[3][6]。
1860年 - レオポルド・エイドリッツ
1898年 - ジョン・H・ダンカン
1903年 - ウィリアム・マーティン・エイキン
1907年、1912年、1915年、1917年 - グロスバナー・アッターベリー
1956年 - シュリーヴ・ラム&ハーモン