シッキム州
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シッキム州
ネパール語: ???????
中国語: 錫金
チベット語 ???????????


(インド国内の位置)

基礎情報
 インド
行政区シッキム州
州都ガントク(Gangtok)
面積7,096 km2
人口2011年
 - 合計610,577 人
 - 人口密度86 人/km2
時間帯インド標準時(IST)UTC+5:30
公用語ネパール語英語シッキム語レプチャ語リンブー語ネワール語グルン語マガール語シェルパ語タマン語スヌワール語
創立1975年5月16日
州知事ラクシュマン・アチャリヤ(英語版)
(Lakshman Acharya)
州首相プレム・シン・タマン(Prem Singh Tamang)
立法機関(議席数)一院制(32)
略称(ISO)IN-SK
州公式ウェブサイト https://www.sikkim.gov.in/

シッキム州(シッキムしゅう、英語: Sikkim)は、インド北東部ののひとつである。中国語(漢字)では錫金と表記し、ヒマラヤ南麓のネパールブータンの間に位置する。かつてシッキム王国だった歴史的な経緯により、インド28州のうち人口最少、面積はゴア州に次いで2番目に狭い小さな州となっている。
歴史詳細は「シッキムの歴史(英語版)」を参照
シッキム王国詳細は「シッキム王国」を参照

シッキムにはもともとレプチャ人が居住していた。しかし、1642年チベットチベット仏教ゲルク派が主導する政権であるガンデンポタンダライ・ラマ政権)により統一されると、ゲルク派に対立していたチベット仏教ニンマ派の高僧と同派を奉ずるチベット人 の一部(のちのブティヤ人)がシッキムの地に亡命し、プンツォ・ナムゲルを擁立してシッキム王国(ナムゲル朝)を建国した。チベット人の亡命政権だったことからチベットはシッキムを属国とし、チベットを属国としていた清朝もシッキムを自らの属国とみなすという複雑な状況となっていた。

1706年、 ブータン王がカリンポン一帯を奪い取り、現在の地名に変更した。1780年代後半、ネパールから来たグルカ族ダージリンカリンポンに侵攻し、1788年までに一帯を支配した。イギリス領インド帝国時代になると、ネパールがイギリスとシッキムにとって共通の敵とみなされた。イギリス東インド会社がネパール(ゴルカ朝)に侵攻したグルカ戦争(1814年 - 1816年)でスガウリ条約が結ばれ、シッキムの王ツグプ・ナムゲルがダージリンとカリンポンの奪還に成功した。

その一方でイギリスはチベットとの交易も模索し始め、シルクロードのあるシッキムはその中継点として理想的といえた。それは南下しつつあるロシア帝国がチベットとの関係を深めようとすることを牽制する意味があった。

1840年に隣国のアヘン戦争になると、緩衝地帯の西に位置するラダックに当時あったシク王国とチベットの間で清・シク戦争(1841年 - 1842年)が行われた。しかしその直後、イギリスとの間で第一次シク戦争(1845年 - 1846年)及び第二次シク戦争(1848年 - 1849年)が行われ、シク王国は滅亡し、ジャンムー・カシミール藩王国が誕生した。

1849年、シッキムは南部のダージリン地方を当時の35,000ルピーでイギリスへ割譲させられた。チベットは、イギリスと隣接する領域が西部だけでなく東部にもできることに脅威を感じ反発したが、イギリス軍がチベット軍を撃退、1861年には清朝との間でシッキムをイギリスの保護国とすることが定められた。1866年、フランスによる雲南省経由通商路の調査がきっかけとなって、雲南問題で知られるイギリス、フランス、中国間の紛争が始まると、イギリスの主な関心はより豊かな雲南方面へと移っていき、この地域に求められる役割はインド総督府の避暑地となった。しかし1888年のシッキム遠征(英語版)で初めてチベット軍と戦闘になり、イギリスのチベット遠征の前哨戦となった。この時期に茶葉栽培のためにネパール人[注釈 1]が労働力として大量に移住し、ブティヤ人を凌ぐ人口を擁するようになった。

?シッキム王国の国旗(1877年-1914年)

?シッキム王国の国旗(1914年-1962年)

?シッキム王国の国旗(1962年-1967年)

?シッキム王国の国旗(1967年-1975年)

シッキム王国時代の基礎情報

1975年時のシッキム王国の基礎情報。[1]

人口194,000人面積7,107km2首都ガントク(12,000人)
民族構成ネパール人(75%)、レプチャ人、ブティヤ人言語ネパール語レプチャ語ヒンディー語(文盲率 84%)宗教ヒンドゥー教(60%)、仏教 など
国民総生産 (GNP)1200万ドル一人当たりの国民所得60ドルビザ必要
当時の国王 パルデン・トンドゥプ・ナムゲル当時の首相I.S.チョプラ当時の立法任命制の6人と選挙で選ばれた18人、計24人の国家評議会が担当。

インド編入とシッキム州誕生

1947年インド連邦独立すると、シッキムにおけるイギリスの地位はインドが継承することとなった。1950年にシッキムはインド・シッキム条約を結び、外交と防衛、通信をインドに委ねる保護国になった。また同条約に基づき、シッキム王国は民主化を進めることが規定され、参事院(State Council、立法府に相当)と行政参事会(Executive Council、内閣に相当)の設立が決定した。

しかし王国を支持するブティヤ・レプチャ・チベット系の人口が25%に対し、労働力として流入していたネパール系が75%を占める人口比率では、民主化が実現した場合はネパール系が主導権を掌握することが王国内で危惧されたことから、シッキム王国政府は参事院議席のコミュナル別割当を実施した。すなわち全17議席のうち6議席を「ブティヤ・レプチャ系」に、6議席を「ネパール系」に分配してこれを選挙議席とし、残る5議席を国王による親任と定めた。ネパール系住民を主体とする政党は不平等な選挙制度に不満を抱いたが、第11代国王タシ・ナムゲルは親インド姿勢をとっていたため、インドも彼の治世においてはコミュナル選挙制度を支持していた。

しかし1963年にタシ・ナムゲルが崩御し、皇太子パルデン・トンドゥプ・ナムゲル(以下、「パルデン・トンドゥプ」と略す)が即位すると情勢は変化する。パルデン・トンドゥプはインドの保護下に置かれるシッキムの現状に不満を抱き、王室を支持するブティヤ・レプチャ系のシッキム国民党(SNP)を支援し、タシ・ナムゲル王の親インド路線を反インド、シッキム独立の政治路線へと転換した。


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