シチリア晩祷戦争
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シチリア晩祷戦争

フランチェスコ・アイエツによるシチリアの晩祷(1846年)

1282年?1302年
場所地中海; 主に シチリアメッツォジョールノアラゴン及びカタルーニャ
結果シチリア王国バルセロナ家トリナクリア王国 (it) とアンジュー家ナポリ王国に分離した。

衝突した勢力
アラゴン連合王国
トリナクリア王国 (it) 
東ローマ帝国 アンジューナポリ王国
フランス王国
マヨルカ王国

シチリア晩祷戦争(シチリアばんとうせんそう)は、1282年シャルル・ダンジューに対する「シチリアの晩祷」に始まり、1302年カルタベッロッタの和平で終わった中世ヨーロッパの戦争。争いは、ローマ教皇より支援を受けたアンジュー家の王位請求者であるシャルル・ダンジューとその息子シャルル2世フランスフィリップ3世大胆王並びにその関係者と、ペドロ3世大王をはじめとするアラゴン王家(バルセロナ家)との間で、シチリアカタルーニャアラゴン十字軍)並びに地中海を舞台にして繰り広げられた。
背景詳細は「シチリアの晩祷」を参照

シチリアは、12世紀初頭にルッジェーロ2世がイタリア本土の豪族を撃破し、ローマ教皇からシチリア王位を授けられて以来、南イタリアをも含んだシチリア王国の一部を成していた。その統治は神聖ローマ皇帝を兼ねたフェデリーコ(フリードリヒ2世)によって引き継がれたものの、その庶子であるマンフレーディ1266年に、アンジュー伯シャルル(シャルル1世、シャルル・ダンジュー)率いるフランスの侵略を受けて追われた。フランス人による統治はすぐに、抑圧的で残酷な要素を帯びるようになった。

復活最後の月曜日である1282年3月30日パレルモ郊外に位置する聖霊教会 (it) にて夕べの祈り(晩課)の際に、シチリア人女性がフランス人男性から嫌がらせを受けた。嫌がらせの内実がいかなるものだったのか、そのシチリア人女性とフランス人男性が誰だったかについては、報告によって異なる。

このたった一つの出来事がきっかけで、その後6週間にわたって続くことになる、4000人にも上るフランス人大量虐殺に至った。この惨劇は、シチリア国王となっていたシャルル・ダンジューとその配下のフランス人による、現地のシチリア人に対する虐政(特にシャルル自身がシチリアを不在にした時に顕著であった)の産物であった。わずかに数人の役人がその目立った善政により命を救われ、シャルルはメッシーナを維持することが出来た。しかし、教皇代理(英語版)オルレアンのエルベールの外交上の失敗により, 4月28日にメッシーナで反乱が起きた。エルベールはマテグリフォン(英語版)の城に退き、港に繋がれていた十字軍の艦隊は焼き払われた。

アラゴンペドロ3世大王は自身の妃コンスタンサの権利を通してマンフレーディの後継者であり、イタリアの医師であるジョヴァンニ・ダ・プロチーダ(イタリア語版)がその代理人として行動していた[1]。ジョヴァンニはマンフレーディに対して忠実に仕えており、タリアコッツォの戦い(イタリア語版)でシャルルの支配が確定するとアラゴンに亡命した。ジョヴァンニはシチリアへ赴くと、ペドロが有利になるよう不満を煽り立て、それからコンスタンティノープルに赴いて東ローマ帝国の皇帝ミカエル8世パレオロゴスからの支援の確約を取り付けた。ミカエル8世はローマ教皇の許可なしでペドロを支援することに対して拒否を示したことから、ジョヴァンニはローマに赴いて、シャルルがメッツォジョールノで台頭することを恐れる教皇ニコラウス3世からの同意を得た。ジョヴァンニはそれからバルセロナに戻ったが、ニコラウス3世は間もなく死去し、フランス人でシャルルの同盟者であったシモン・ド・ブリオンがマルティヌス4世として新教皇となった。
アラゴン王国のイタリア侵攻トラーパニに上陸するアラゴン国王ペドロ3世

晩祷事件の後、シチリア人はすぐにペドロ3世のもとに赴いて統治権を譲渡した。ペドロ自らが指揮をとるアラゴン海軍は、現在のアルジェリア東部に位置するコッロ(英語版)に上陸し、そのもとにはシチリア人からの使節が送られてきた。ペドロはシチリア王位につくよう要請され、これを受け入れた。この時、教皇マルティヌス4世はシチリア人共同体を援助することを拒否し、シチリア人反乱者は北イタリア皇帝派ともども教皇によって破門された。

十字軍への望みを捨てたシャルルは、カラブリアにおいて自軍を掻き集め、メッシーナ付近に上陸して包囲を開始した。晩祷事件から4ヶ月後にあたる1282年8月30日、ペドロがトラーパニに上陸して即座にパレルモへ進軍し、9月4日にシチリア人からの臣従の誓いを受けてその古くからの特権を認めた。わずかにパレルモ大司教の不在が戴冠の妨げになっただけであった。シャルルは既にメッシーナを包囲していたが、この時アラゴン軍は初めて彼と出会っている。10月末までにシャルルはシチリア島を立ち退くことを余儀なくされ、それ以来、支配権はイタリア半島本土に限定されることとなった。11月18日にマルティヌス4世はペドロを破門し、その王位を剥奪した。

ペドロ3世は自身の優位を強調し、1283年2月までにカラブリア海岸線の大部分を掌握した。絶望的感情に陥ったシャルルは、ペドロのもとに手紙を送って一騎討ちによる紛争の解決を求めた。ペドロはこれを承諾し、シャルルはフランスに帰国して決闘の同意を取り付けた。両王は6人の騎士を選り抜いて、決闘の場所と日付を取り付けた。決闘はボルドーにて1月1日に行われることとなった。双方共に100人の騎士が同行し、イングランド国王エドワード1世が審判役を務めることとなったが、エドワードは教皇に注意して決闘にかかわりを持つことを拒絶している[2]。ペドロはジョヴァンニ・ダ・プロチーダを自身の代理としてシチリアに残し、アラゴン経由でボルドーへ戻ったが、その際にフランスによる待ち伏せの疑いを避けるため、変装して同都市に入城している。ペドロには護衛がいなかったので、非常に危険な状態でアラゴンに帰った。

ペドロとシャルルが決闘による決着を追い求めている間に、カタルーニャの海軍提督であるルッジェーロ・ディ・ラウリア(イタリア語版)はペドロの代理としてイタリアで戦闘を継続していた。ルッジェーロはカラブリア海岸沿いを略奪して、その巨大な海軍の存在感を維持し続けた。シャルル1世はボルドーを去ってプロヴァンス伯領に赴き、同地から艦隊を、当時のイタリアにおける自身の王国の首都かつ王朝の支柱となるナポリへ派遣した。ルッジェーロはマルタを占領し、同島近くのマルタの戦い(カタルーニャ語版)でアンジュー伯(フランス語版)=プロヴァンス伯艦隊を撃破した。


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