シチリアの晩鐘_(ヴェルディ)
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『シチリアの晩鐘』(イタリア語版)のリトグラフ.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}関連ポータルのリンク

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『シチリアの晩鐘』(:Les vepres siciliennes)は、ジュゼッペ・ヴェルディが作曲した5幕から構成されるオペラ。『シチリア島の夕べの祈り』や『シチリアの晩祷』とも訳され、前者が多く使用されるが一定しない。序曲は演奏会などで単独でも演奏される有名な楽曲である。

元になった題材は、1282年パレルモで島民によってフランス人が虐殺された、「シチリアの晩祷」と呼ばれる事件および暴動である。
作曲・初演ソフィー・クルヴェリ

ヴェルディがパリのオペラ座のために初めて新しく書いた作品である[1]1852年の春にオペラ座と契約を結んだヴェルディは、支配人ロクプラン(英語版)から第1回パリ万国博覧会のためにフランス風グランド・オペラの作曲を依頼される。『イル・トロヴァトーレ』と『椿姫』の初演を挟み、ヴェルディは1854年の大半を作曲に費やしたが、グランド・オペラに求められる長大さにヴェルディは愚痴をこぼしており、台本作家のウジェーヌ・スクリーブとの意見の対立などもあり作曲は難航した。

第4幕までが完成した10月には初演に向けての準備と練習が開始されたが、プリマドンナのソフィー・クルヴェリ(英語版)が愛人と共に突然失踪して騒動となり、この失踪によって支配人が交代するというスキャンダルとなる。5週間後にクルヴェリが戻って準備と練習が再開したものの、当初予定していた初演は大幅に遅れる結果となった[2]

初演は1855年6月13日にオペラ座で行われ、スペクタクルな題材が好評を受けて大きな成功を収める。この成功に鑑みて、イタリア初演が12月26日パルマのテアトロ・レージョ(英語版)で行われている(アルナルド・フジナート(イタリア語版)の訳詩による)が、この際に検閲当局が難色を示したため、『ジョヴァンナ・デ・グズマン』(Giovanna de Guzman)とタイトルを変更された。1856年2月4日にはミラノ・スカラ座でエウジェーニオ・カイミ (Eugenio Caimi) の翻訳と改作によって上演されており、のちに『シチリアの晩鐘』(I Vespri Siciliani)の題で上演される際にもカイミの翻訳が残っている部分が多い。

なお、オペラ座で行われた初演は、1年間で40回上演された記録が残っているが、その後標準的なレパートリーには残らなかった。
リブレットウジェーヌ・スクリーブ

台本(リブレット)ウジェーヌ・スクリーブとシャルル・デュヴェイリエ(Charles Duveyrier)による[3]。使用した台本の原作は『アルバ公爵(英語版)』で、当初アレヴィのために書いたものだが、アレヴィはこれを使わなかったため、1839年ドニゼッティに作曲の依頼をする。しかしドニゼッティは作曲の途中に没したため、『アルバ公爵』は未完に終わってしまう。後にスクリーブが既存の台本を改訂し、そのままヴェルディのオペラに改訂版を使用した。ヴェルディは後年、このリブレットが「使い回し」のものであることを事前に教えてもらえなかったと言う非難めいた発言をし、これが絶対視されてきた。オペラ研究家の岸純信はこれについて「ヴェルディの記憶違いであるとする資料がある。1917年刊行のスクリーブの書簡集によると異なる内容が載っているのである。(中略)スクリーブが当時の共作者デュヴェイリエに宛てたこの長文はヴェルディに《シチリア》の台本を提供するに際し、最初から《アルバ公爵》を改訂したものと教えてあって、ヴェルディ側もそれを承知で作曲を進めたという事情を示している」と述べる。[4] シャルル・デュヴェイリエ

1853年12月3日付の長文の手紙では、@題名を変えること、A主役を変更すること、B場所の設定を変えること、C第5幕全体を変えること、Dヴェルディが毎日細かな修正を要求してくることなどが記述されている。さらに岸純信は次のように指摘している。「ヴェルディの注文に応じてスクリーブは《シチリア》を大幅に書き直した。老境でも彼は彼なりに励んだ。このことは仏語オリジナルの楽譜と台本の原典(1979年にパリ・オペラ座から復刻出版)を見ればすぐにわかることである」[5]。この結果、スクリーブは第5幕全体を変えることによって、政治暴動と家族の対立を背景とした愛と義務との間の葛藤において、『ユグノー教徒』での自らの偉業を再現した。つまり、フランス人を圧制者、暗殺者、放蕩者として描いている劇作品を外国人に音楽化させたのである。ヴェルディはと言えば、彼の好む「力に満ちた情景」を台本から見いだしていたのであって、場面設定などはそれほど重要視していなかった[6]
音楽『シチリアの晩鐘』の 1855年時のスコア

『シチリアの晩鐘』はヴェルディの先立つ3作(『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』)に比べると旋律的直接性 (melodic immediacy) を欠いている。しかし、1850年代のヴェルディのオペラを考える際には非常に重要である。


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