システィーナ礼拝堂天井画
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『アダムの創造』の部分。父なる神の手がアダムに生命を吹き込む図像。 システィーナ礼拝堂天井画 建築モティーフの一覧

システィーナ礼拝堂天井画、より正確にスィスティーナ礼拝堂天井画(スィスティーナれいはいどうてんじょうが、: Volta della Cappella Sistina)は、バチカン市国バチカン宮殿内に建てられたシスティーナ礼拝堂の天井に、ミケランジェロ・ブオナローティによって描かれた絵画作品である。盛期ルネサンスを代表する芸術作品の一つであるこの天井画は、1508年から1512年にかけて制作された。天井画がある壮大なシスティーナ礼拝堂は、1477年から1480年にかけて、教皇シクストゥス4世によってバチカン宮殿内に建造されたものである。

さまざまな主題を含むこの天井画は、祭壇壁の『最後の審判』の巨大なフレスコ画(これもミケランジェロ作)や、他の画家たちによって制作されたフレスコ壁画、ラファエロの原画によるタペストリー群などとともに、システィーナ礼拝堂全体の装飾計画の一部をなすものであり、これらは全体として、カトリック教会の教義を絵画化したものである。

天井の装飾の中心をなすのは、『創世記』に取材した9つの場面であり、中でも『アダムの創造』が著名である。父なる神の指とアダムの指とが触れ合おうとする場面は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』と並んでよく知られた画像であり、数限りない複製や模写が作られてきた。
目次

1 歴史

2 制作技法

3 天井画の内容

4 建築モティーフ

4.1 現実の建築形態

4.2 見せかけの建築形態


5 画面構想

5.1 『創世記』からの9つの場面

5.1.1 天地創造

5.1.2 アダムとエヴァ

5.1.3 ノアの物語

5.1.4 メダイヨン


5.2 12人の預言者と巫女

5.2.1 預言者

5.2.2 巫女


5.3 ペンデンティヴ

5.4 キリストの祖先たち

5.4.1 テーマ

5.4.2 画風


5.5 イニューディ


6 様式の分析と後世への芸術的遺産

7 引用集

8 修復

9 脚注

歴史 教皇ユリウス2世(ラファエロ作)

1506年、教皇ユリウス2世は、システィーナ礼拝堂の天井を絵画で装飾する計画を立てた。当時、礼拝堂側壁の中段には、「キリスト伝」「モーセ伝」を表した一連の壁画群がすでに描かれていた。

これらの壁画は、ペルジーノボッティチェッリギルランダイオら、当時もっとも高名だったルネサンス期の画家たちによって制作されたものであった。ミケランジェロは、天井画の制作を命じられたものの、自分の本職は画家ではなく彫刻家であると自認していたので、この仕事には気乗りがしなかった。それに加え、当時のミケランジェロは、ほかならぬ教皇ユリウス2世自身の墓碑(霊廟)制作の仕事に忙しかった。その墓碑は、数多くの彫像で飾られた、壮大な規模のものであった。しかし、教皇は何としてもミケランジェロにこの天井画を描かせようとして譲らず、ミケランジェロには仕事を引き受ける以外の選択肢はなかったのである。その後、フランスとの紛争が発生すると、教会だけでなく軍事面の指導者でもあったユリウス2世の心は、天井画よりも戦争の方に向かったので、その隙にミケランジェロはローマから逃亡し、墓碑彫刻の仕事を再開したのであった。しかし1508年、紛争に勝利した教皇がローマに戻ってきてミケランジェロを呼び出し、天井画の制作を始めるように命じたため、墓碑彫刻の方は完成せずじまいであった。天井画制作の契約にミケランジェロがサインしたのは1508年5月10日である。

教皇が提案した構想は、天井に十二使徒の巨大な像を描かせようというものであった。しかし、ミケランジェロはこの構想を変更し、より複雑なデザインのものにした。それは、最終的には約300人の人物像を含む天井画となり、4年の歳月をかけて1512年に完成した。ミケランジェロは、天井画を描く時、俗説のように仰向けになって描いたのではなく、立ったままで描いた。ヴァザーリによれば、「この天井画はきわめて困難な状況下で描かれたものであり、ミケランジェロは首を天井の方へ曲げたままで描かなければならなかった」とのことである。
制作技法

ミケランジェロは、礼拝堂の天井に手が届くように、天井画制作用の足場を自ら設計した。床面から足場を組み立てたとしたら巨大な構造物になってしまうが、ミケランジェロは側壁の窓の上あたりに穴を開け、そこから支えの腕木を出し、そこに木造の平台を載せて足場とした。天井画制作は3場面ずつ3段階に分けて行われ、足場が天井全体を覆ってしまうことはなかった。

ミケランジェロの弟子で伝記作者でもあるコンディーヴィの記録するところによると、中央の足場とその両脇の階段(ルネッタやペンデンティヴ部分を描くのに用いた)、これらを支持するための腕木と枠がまず取り付けられ、これらの下には垂れ落ちる漆喰、ごみ、顔料の飛沫などを受け止めるための軽い幕(おそらく布製)がぶら下がっていた。足場は天井の半分のみを覆っていた。 この青年裸体像の頭部と腕の周囲には1日の仕事分(ジョルナータ)の漆喰を塗った跡が明瞭である。

天井画に用いられた技法はフレスコ、すなわち、生乾きの漆喰の上に描く壁画制作技法である。ミケランジェロはギルランダイオの工房で修業中にこの技法を経験している。ギルランダイオはフィレンツェにおけるもっとも有能かつ多作なフレスコ画家の一人であり、フィレンツェ市内のいくつかの教会の重要なフレスコ画を制作したほか、システィーナ礼拝堂側壁の壁画制作にも参加している。当初、イントーナコ(上塗り漆喰)の湿り気が多すぎるためにカビが発生し、ミケランジェロはカビを除去してから制作にとりかからねばならなかった。その後彼は、助手の一人であるヤコポ・トルニ(リンダーコ)の考案した、新しい漆喰調合法を試みた。この調合法はカビを寄せ付けず、その後のイタリア建築の伝統に組み入れられるものとなった。

フレスコ画は、壁の漆喰が生乾きのうちに描き終えねばならないので、毎日、その日に新たに描く壁の面積分(ジョルナータ)だけの上塗り漆喰が塗られる。次の部分を制作する際は、縁のはみ出した漆喰を削り取った上で、その日のジョルナータ分の上塗り漆喰が塗られる。こうした制作法が用いられたことは、天井画よりも祭壇画の『最後の審判』の方でより明白に分かる。ミケランジェロがフレスコ技法を採用したのは、漆喰が完全に乾いた状態で描く(フレスコに対して「セッコ」という)技法では、フレスコ画のような自由な筆遣いがしにくいことと、フレスコの場合と違って、顔料が漆喰と一体化しないことによる。一方、フレスコの欠点は漆喰を新たに塗る際に熱くなり、蒸気を吹き出す点である。 この図で明らかなように、ミケランジェロは、ルネッタ(半月形壁)の下端の、足場で覆われていた部分は仕上げていない(この部分は下からルネッタを見上げた時には死角になって見えない)。この画面はまた、彼の華麗な色使いを示している。女性の衣服には不透明な黄色のハイライトを施し、影は透明な緑と薄紫で表されるが、袖の部分の影はヴァーミリオンである。

フレスコ画家は、制作にあたって原寸大の細密な下絵(カルトーネ)を用い、図柄を漆喰の表面に写し取るのが通例であった。多くのフレスコ画には、下絵の線に沿って、尖ったもので空けられた小穴が残っている。しかし、これらのルネッタにおいて、ミケランジェロは伝統を破り、いったんフレスコ技法に自信を付けてからは下描きなしで画面に直接描き込んでいる。ミケランジェロの力強い描線が画面に食い込んでいる箇所がある。一方ではグリッド(格子)がみられる箇所もあり、彼が小さな下絵を画面に直接拡大したことを示している。


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