シクウォイア(チェロキー文字での自称[1][2]:????;そのラテン翻字:S-si-quo-ya、1767年頃 - 1843年)は、チェロキーの銀細工師で、1821年に独力でチェロキー文字を創造した人物。その意図は、チェロキー語での読み書きを可能にすることであった。彼の発明は、文字を持たない民族の一員が実用性のある文字体系を独力で作り出した、歴史上唯一の例である[3][4]。その価値を認めたチェロキー族の間には急速にこの音節文字の使用が広まり、1825年には公式に採用された。彼らの識字率は周囲の白人入植者たちのそれを急速に追い抜いた[3]。
現代ではセコイヤ(チェロキー文字:???;ラテン翻字:Se-quo-ya, 通常の英語式表記:Sequoyah)とも表記される。英語名はジョージ・ギスト(George Gist)またはゲス(Guess)。 その英雄的な信望により、彼の生涯は幾つかの互いに矛盾する情報が錯綜し、思索的だが信頼しがたいものとなっている。[5] チェロキー族の歴史に詳しい人類学者ジェイムズ・ムーニイ
前半生
彼の母親Wut-tehは平原部族の一員で、チェロキー族の間ではよく知られる人物だった。ムーニイは、彼女がチェロキーのある部族の酋長の姪で、その酋長はオールド・タッセル (Old Tasssel) およびダブルヘッド (Doublehead) とは兄弟であったと述べている。ジョン・ワッツ (John Watts) ことヤング・タッセルは上記2人の酋長の甥であったから、Wut-tehとジョン・ワッツはきょうだいであった公算が大である。シクウォイアの父親については資料によって違いがある。ムーニイらは、彼の父親はかなりの社会的地位と経済力を有する毛皮商人だったという説を唱えている[6]。グラント・フォアマン (Grant Foreman) はジョージ・ワシントン麾下の大陸軍将校ナサニエル・ギスト (Nathaniel Gist) を彼の父だと見なしている[4][7]。チェロキー族の資料では、シクウォイアの父は混血で、そのまた父親が白人だと言われる[8]。
シクウォイアは初めサリー・ウォーターズ (Sally Waters) という女性と結婚し、4人の子供を儲けた。その後Utiyuという女性と3子を成した。彼にはおそらく更に3人の妻がいた(チェロキーの間では一夫多妻は珍しいことではなかった)。1809年以前のある時、シクウォイアはチェロキー・ネイションのウィルズタウン(Willstown;現アラバマ州北東部)に移り、銀細工師として商売を始めた[9]。1813年、ジョージ・ゲスはチェロキー連隊に戦士として所属し、ホースシュー・ベンドの戦いに従軍した。
音節文字表の創造シクウォイアの音節文字。発明者オリジナルの順序に並べてある。
当時のインディアンたちは白人たちの「書くこと」に感銘を受けており、文書を「喋る葉」と呼んだ。銀細工師として、シクウォイアは周辺の白人入植者と交流があり、彼も「書くこと」に感銘を受けたひとりだった。しかしシクウォイアは英語を理解しなかったため、当然ながら白人が何を書いているかも理解できなかったものの、その有用性は認め、自ら簡単な絵や図柄を「描く」ことで、顧客のツケを記録する方法を生み出した。やがてその図柄を点や線の記号へと発展させ、帳簿をつけるまでになった。
1809年ごろ、シクウォイアはチェロキー語を書き表すシステムの創造に取りかかった。はじめ彼は表意文字を志向していた。畑を放棄してそれに1年の時間をかけたため、彼の友人や隣人は彼が正気を失ったと見なした[8][10]。