シオン賢者の議定書
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シオン賢者の議定書
Протоколы сионских мудрецов
ロシア語版テキストの表紙。セルゲイ・ニルス著『卑小なるもののうちの偉大』(1920年)に収録されたロシア語版(1905年)の再版。
発行日1903年
ロシア帝国
言語ロシア語及びドイツ語(ロシア語以外で最初)

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『シオン賢者の議定書』(シオンけんじゃのぎていしょ、: The Protocols of the Elders of Zion、: Протоколы сионских мудрецов)は、「秘密権力の世界征服計画書」という触れ込みで広まった会話形式の文書。1890年代の終わりから1900年代の初めにかけてロシア語版が出て以降、『シオンの議定書』[1]『シオン長老の議定書』[2]とも呼ばれる。この記事では「議定書」とも省略する。

内容は、タルムード経典に記載(バビロン版-ゾハールの2-64のB節)された、選民のユダヤ人が非ユダヤ人(動物)を世界支配するという実現化への方針の道筋の陰謀論であり、ヘンリー・フォードヒトラーなど世界中の反ユダヤ主義者に影響を与えた[3]ドイツ国国会議員国家社会主義ドイツ労働者党対外政策全国指導者(ドイツ語版)兼東部占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルクが1920年にドイツ語に翻訳し『シオン賢者の議定書』として出版されたことにより、「反シオニスト運動」が起こり結果的に国民社会主義ドイツ労働者党政権のドイツにおいてユダヤ人の大量虐殺(ホロコースト)を引き起こしたともいえることから「史上最悪の偽書」[4]、「史上最低の偽造文書」ともとされる[5]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ロシア語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。シオン賢者の議定書英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。シオン賢者の議定書詳細は「カール・マリア・ヴィリグート#イルミン教」を参照詳細は「フリッツ・ユリウス・クーン#」を参照詳細は「ドイツ系アメリカ人協会#」を参照
内容

この文書は1897年8月29日から31日にかけてスイスバーゼルで開かれた第一回シオニスト会議の席上で発表された「シオン二十四人の長老」による決議文であるという体裁をとっている。文書では、選民(神が認めた唯一の人間)であるユダヤ人が非ユダヤ人(動物)を世界を支配して、すべての民をモーセの宗旨、つまりユダヤ教の前に平伏させるというシオニズムとタルムード経典の実現化の内容を持つ[3]

シオンの賢者は、シオン血統の専制君主のために、「自由、博愛、平等」のスローガンを考案し、フランス革命を起こして、シオンの専制君主が全世界の法王となることを画策した、とされる[3]。こうした陰謀論は、イエズス会フリーメイソンを悪役とする陰謀論でもみられた[3]。シオニストは、「反キリスト」をスローガンとして、シオニストがキリストを十字架に掛けた時を起源として始まったとされている。

また、タルムードを根源としてサンヘドリンにより製作されたタルムードには、(バビロン版)「ユダヤ人は、神の選んだ唯一の人間であり、非ユダヤ人(異邦人)は、獣(動物)であり、人間の形をした動物(家畜)であるので、人間(ユダヤ人)が動物(家畜)を群れとして支配しなければならない」との記載(ゾハールの2-64のB節)があると、ユダヤ人研究家の宇野正美は、発言している事より、『シオンの議定書』との内容の一致が見られる。
ロシアにおける文書の出現とその時代背景

1878年ニコライ・メゼンツォフ皇帝官房第三部長官が暗殺された。皇帝官房第三部第三課は外国人監視、国外情報収集を担当していた[6]。さらに1880年2月にアレクサンドル2世皇帝が暗殺未遂される冬宮食堂爆破事件が起きた。そのため、ロリス=メリコフを長とする最高指揮委員会が設置され、8月にはメリコフは内務大臣に就任した。メリコフ大臣は皇帝官房第三部を廃止した。しかし1881年3月にアレクサンドル2世皇帝が暗殺されたため、メリコフの改革案は白紙化された。1881年、ロシア帝国内務省警察部警備局(オフラーナ)が設立された[7]

1895年、ロシア警察に『ユダヤ教の秘密』という文書が保管されており、そのなかでは、ユダヤ人はキリストを十字架にかけた時から壮大な陰謀を仕組み、キリスト教を世界に普及させた後でキリスト教をあらゆる手段を用いて破壊することを計画したと書かれていた[8]。しかし、この文書は皇帝に提出はされなかった[8]

一説では、ロシア帝国内務省警察部警備局パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが1897年から1899年のあいだに、現在も身元不明の作者に依頼してパリで作成したものとされる[3]。または、1902年にロシア人の反ユダヤ主義者により捏造されたといわれる[9]

1902年4月7日、ミカエル・メンシコフ[10]がユダヤ賢者による世界支配が3千年間計画されてきたと報じた[11][12]。メンシコフはある女性から、ニースのユダヤ人倉庫から盗まれた文書であるとして渡されたと言った[11]。(この女性については後述する。)

歴史家のノーマン・コーンによると、議定書が最初に世に出たのはサンクトペテルブルクの新聞『軍旗(ルースコエ・ズナーミャ(ロシア語版)、ロシア語)』で1903年8月26日から9月7日ユリウス暦)にかけて短縮版が連載され、編集長は反ユダヤ活動家のP.A.クルーシュヴァン(ロシア語版)だった[13]

1903年には議定書がロシアで一般に出版された。同年にはロシア政府がシオニズムを禁止している[14]

1905年1月に14万人の労働者によるデモに対して銃撃される血の日曜日事件が起き、2月にはモスクワ総督でロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチが爆弾で暗殺された。
作者

量販された議定書の最初の刊行者はロシアの神秘思想家セルゲイ・ニルスともされ、発行は「1902年-1903年」とあり、ロシアで書かれたものとされる[15]。ニルスの書物『卑小なるもののうちの偉大??政治的緊急課題としての反キリスト』[16]は1905年の秋に出版され、ロシア皇帝ニコライ2世に献上するために作成されたとされる[17]
ピョートル・ラチコフスキー

また、文書はロシア帝国内務省警察部警備局(オフラーナ)在パリ部長のピョートル・ラチコフスキー(ロシア語版)がエリ・ド・シオン(ロシア語版)なる人物の別荘を家宅捜索した際に得た文書を改竄したものにニルスの序文を添えたものであった[18]。ラチコフスキーが改竄を行った目的は、「ロシア民衆の不満を皇帝からユダヤ人に向けさせるためにこの本を作成した」ともされるが、ラチコフスキーの本当の目的は、エリ・ド・シオンのシオン(Cyon)とシオン賢者のシオン(Zion)がロシア語では同じ綴りになるということを利用して間接的に「議定書」の出所をエリ・ド・シオンになすりつけることにあったのではないかと言われる[19]

ストルイピン大臣が憲兵隊に調査を命じると、この文書が偽書であることが判明したため、皇帝ニコライ2世はこの文書の廃棄を命じ、ラチコフスキーの立身出世には役に立たなかった[20]。ラチコフスキーはその後、反ユダヤ団体黒百人組のロシア民族同盟の結成に関わった[21]

1905年1月21日にはロシア第一革命に繋がるゼネラル・ストライキが発生した。同年12月(ユリウス暦)には既に、議定書の完全版を収録した『諸悪の根源??ヨーロッパ、とりわけロシアの社会の現在の無秩序の原因は奈辺にあるのか? フリーメーソン世界連合の新旧議定書よりの抜粋』という冊子が発行されていた。これは、革命派、社会主義者の暗殺とユダヤ人虐殺を目的とした極右団体黒百人組の創設メンバーであるG.V.ブトミが発行した[22]

カタジナ・ラジヴィウ公爵夫人は1921年ニューヨークでの講演で、議定書は1904年から1905年にかけて、パリにおけるロシア秘密諜報機関の責任者ピョートル・ラチコフスキーの指示により、ジャーナリストのマトヴェイ・ゴロヴィンスキー(Matvei Golovinski)とマナセーヴィチ=マヌイロフ(Manasevich-Manuilov)が執筆したと述べ、またゴロヴィンスキーはモーリス・ジョリー(Maurice Joly)の息子シャルル・ジョリーと共に「フィガロ」紙で勤務していた、と述べた[23]。1933年から1935年にかけてのスイスでのベルン裁判(Berne Trial)においてカタジナ発言について以下のような疑義が出された。マトヴェイ・ゴロヴィンスキーが彼女に議定書の草稿を見せた1905年は、既に1903年に「ズナーミャ(Znamya)」紙に議定書が掲載しされていたことや、1902年にラチコフスキーは更迭され、サンクトペテルブルクに戻っていることと矛盾しており、「アメリカン・へブリュー(The American Hebrew)」および「ニューヨーク・タイムズ」での誤字の可能性を指摘された[24]
ユスティニア・グリンカ

メンシコフが1902年4月7日に文書を渡された女性について、筆名L.Flyは、ロシア将軍の娘で神智学徒のユスティニア・グリンカ(Iustin'ia Glinka、ユリアナ・グリンカ(英語版))であり、彼女は1884年にパリでフランスのユダヤ人のJ.S.シャピロ(Joseph Schorst-Shapiro)から文書を購入後にロシア語に翻訳し、ロシア帝国憲兵団[25]長官Petr Vasl'evich Orzhevskiiに渡したとした[11][26][27]

ベルン裁判で社会民主主義者のボリス・ニコラエフスキー(Boris Ivanovich Nikolaevsky)は、議定書はフランスのフリーメイソンのロッジの倉庫から秘密警察情報員のグリンカ夫人の指示で盗まれたと証言した[11]。ニコラエフスキーは、ジュリエット・アダム(Juliette Adam)とIl'ia Tsionの団体にも参与したグリンカ夫人は、議定書のロシアでの頒布に大きな役割を演じたと考えた[11]。ただし、ノーマン・コーンはグリンカ夫人の情報には不明の部分も多いとしている[11]

歴史家Iurii Konstantinovich Begunovは、グリンカ(Iuliana)は、Zion Kahalからの抜粋をフランス人ジャーナリストから受け取り、Aleksei Mikhailovich Sukhotinへ渡し、F.P.StepanovからSipiagin大臣[28]へ、そしてメンシコフからニルスへ渡ったと考えた[11]

文化研究者のVadim Skuratovskiiは、グリンカ夫人は、有名な外交官で思想家であった父親の書物を元に陰謀論的に書き換えたものであり、グリンカ夫人は議定書の共著者の重要な一人だったとする[11]

Lev Aronov,Henryk Baran,and Dmitri Zubarevは、グリンカ夫人の1883年1月から4月にかけて書かれたアレクサンドル3世への書簡を発見した[11]

グリンカ夫人(Iustin'ia Dmitrievna Glinka)は、ロシア外交官Dmitrii Grigor'evich Glinkaの娘で、秘密警察情報員であり、ロシアから亡命した革命家たちに対する政治活動をパリで行った際には、警視総監Louis Andrieux(1840-1931)や、Nouvelle Revue 編集長のジュリエット・アダム(Juliette Adam)と連携した[11]
文書の由来

議定書は先行する評論や小説を元にしており、出典の多くが有名な大衆小説にあった[29]


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