ザ・バーバリアン
ザ・バーバリアン(2017年)
プロフィール
リングネームザ・バーバリアン
コンガ・ザ・バーバリアン
コンガ・キッド
キング・コンガ
トンガ・ジョン
ヘッドシュリンカー・シオネ
スーパー・アサシン1号
本名シオネ・ヴァイラヒ
ニックネーム南海の野人
身長190cm - 192cm
体重134kg - 136kg
誕生日 (1958-09-06) 1958年9月6日(63歳)
出身地 トンガ
トンガタプ島ヌクアロファ
スポーツ歴大相撲
トレーナーレッド・バスチェン
デビュー1980年
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ザ・バーバリアン(The Barbarian)のリングネームで知られるシオネ・ヴァイラヒ(Sione Havea Vailahi、1958年9月6日 - )は、トンガ・ヌクアロファ出身のプロレスラー。
大相撲朝日山部屋出身の元力士であり、プロレス転向後はコンガ・ザ・バーバリアン(Konga the Barbarian)の名義で新日本プロレスに度々来日した[1]。
ノード・ザ・バーバリアンことジョン・ノードとは別人。両者は1991年下期から1992年上期にかけて、WWFを共にサーキットしていた(当時のノードのリングネームは「ザ・バーザーカー」)。
レスラー間では、バーブ(Barb)の愛称で呼ばれた[2]。姪のセイニー・トンガもプロレスラーであり、レイディー・タパ(Lei'D Tapa
)のリングネームでOVWやTNAなどで活動[3]。2017年7月30日にはRIZINに参戦してKINGレイナと対戦した。目次1974年末、福ノ島ことウリウリ・フィフィタ(後のキング・トンガ、ハク、ミング)らと共にトンガ国王の命で来日し、大相撲の朝日山部屋に入門。幸ノ島の四股名を与えられ、1975年3月に初土俵を踏むが、部屋の後継問題が原因で1976年9月に廃業を余儀なくされる(トンガ人力士廃業騒動)。その後アメリカに渡り、元AWA世界タッグ王者レッド・バスチェンに師事。1980年、カリフォルニア地区でキラー・カール・クラップを相手にプロレスラーとしてデビューした。
当時はトンガ・ジョン(Tonga John)をリングネームに、ジミー・スヌーカ系のアイランダー・ギミックのベビーフェイスとして活動。1981年からはNWAのミッドアトランティック地区やセントラル・ステーツ地区、プエルトリコのWWCなどを転戦して、コンガ・キッド(Konga Kid)、キング・コンガ(King Konga)などの名義で試合を行った[4]。WWCでは1984年7月7日、ヘラクレス・アヤラからプエルトリコ・ヘビー級王座を奪取している[5]。
1985年より、当時大人気だったロード・ウォリアーズのビジュアル(モヒカン刈りに顔面ペインティングのマッドマックス・スタイル)を真似たヒールに変身。コンガ・ザ・バーバリアン(Konga the Barbarian)と改名してミッドアトランティック地区に戻り、ポール・ジョーンズ率いるヒール軍団に加入、スーパースター・ビリー・グラハムやアブドーラ・ザ・ブッチャー、バロン・フォン・ラシク、シャスカ・ワトレーらと共闘する[6][7]。1985年10月には新日本プロレスに初来日、アントニオ猪木ともシングルマッチで対戦した[8]。以降も新日本プロレスの常連外国人となり、スティーブ・ウィリアムスとの抗争アングルなども組まれた[1]。
1987年11月、ミッドアトランティック地区にて同じくウォリアーズを模したキャラクターのザ・ウォーロードとコンビを組み、フェイク版ロード・ウォリアーズのパワーズ・オブ・ペイン(The Powers of Pain)を結成[9]。リングネームもザ・バーバリアン(The Barbarian)と簡略化させ、本家ウォリアーズとタッグ抗争を展開する[10]。1988年2月12日にはプレイング・マネージャーのイワン・コロフを加えたトリオで、ダスティ・ローデス、ロード・ウォリアー・ホーク、ポール・エラリング(負傷したロード・ウォリアー・アニマルの代打で出場)を破り、NWA世界6人タッグ王座を獲得した[11]。
1988年6月からはデモリッションのライバル・チームとして、ウォーロードと共にWWFに移籍。当初はベビーフェイス、後にヒールとなり、ミスター・フジをマネージャーに迎えてデモリッションと抗争を繰り広げた[12][13][14][15]。1990年下期、リージョン・オブ・ドゥームことロード・ウォリアーズのWWF参戦に伴いウォーロードとのコンビを解散し、毛皮のコスチュームをまとった野人ギミックのシングルプレイヤーに転向。ボビー・ヒーナンのファミリーに加わり、旧友ハクとの新チームで活動した[16]。1991年には、当時のWWFの日本での提携先だったSWSに3回来日している[17]。