シエナのカタリナ
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修正、加筆に協力し、現在の表現をより自然な表現にして下さる方を求めています。ノートページや履歴も参照してください。(2022年5月)

シエナの聖カタリナ
『シエナの聖カタリナ』ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ[注釈 1]
聖女, ヨーロッパの守護聖人, 聖痕, 教会博士
生誕1347年3月25日
シエーナ共和国(現・ イタリアシエナ
死没1380年4月29日
教皇領 ローマ
崇敬する教派カトリック教会、ルーテル教会、聖公会
列聖日1461年
列聖決定者ピウス2世 (ローマ教皇)
主要聖地ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、シエナにあるカテリーナの聖域(it)
記念日4月29日
象徴ユリの花、本、十字架像、心臓、茨の冠、聖痕、指輪、バラの花、骸骨、教会の小模型、教皇庁の紋章を掲げた船の小模型
守護対象身体に現れる有形の病、火事、火傷、病気、消防士、書記官。イタリアでは、妊婦、看護師、病人
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シエナのカタリナまたはシエナのカテリーナ (イタリア語: Santa Caterina da Siena, 1347年3月25日 - 1380年4月29日)は、ドミニコ会第三会の在俗修道女であり、イタリア文学カトリック教会に多大な影響を与えた神秘家、活動家、作家。1461年に列聖され、教会博士でもある。

彼女が生涯を過ごした場所を考慮して、本項ではイタリア語に倣ったカテリーナで表記する[2][注釈 2]
概要

シエナで生まれ育った彼女は、両親の意に反して幼い頃から神に身を捧げたいと考えていた。彼女は敬虔な女性達による団体「マンテラーテ(Mantellate)」に加入し[3]、非公式ながらドミニコ会に入信した。彼女の影響はグレゴリウス11世 (ローマ教皇)にも及ぶもので、1376年にアヴィニョンを離れてローマへ帰還する教皇の決断に、カテリーナがある種の役割を果たしたとされる[4]。同教皇はフィレンツェとの和平交渉でカテリーナを派遣し、グレゴリウス11世の死(1378年3月)および和平の終結(1378年7月)後、彼女はシエナに戻った。彼女は、書記官らに自分の霊的著作『神の摂理についての対話、あるいは神の教えの書(Il Dialogo della Divina Provvidenza ovvero Libro della Divina Dottrina)』[3][注釈 3]を書きとらせた[5]。1378年からの 教会大分裂で、カテリーナは教皇と共にローマへ向かうことになった。彼女は、ウルバヌス6世 (ローマ教皇)への服従を促したり彼女が「教会の器」と呼ぶものを守るために、大公や枢機卿に多数の手紙を送った。1380年4月29日[4]、彼女は厳格な断食の果てに死去した。ウルバヌス6世がローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会で彼女の葬儀と埋葬を執り行った。

死後、カテリーナをめぐる信仰が急速に発展した。1461年にピウス2世 (ローマ教皇)が彼女を列聖した[6]。1866年に彼女はピウス9世 (ローマ教皇)によってローマの守護聖人に指定された[6]。そして1999年には、ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)が彼女をヨーロッパの守護聖人に指定した。

カテリーナは、多数の著述によって教皇史に強い影響を与えた、中世カトリック教会の傑出した人物の一人である。彼女はアヴィニョンからローマへの教皇帰還(アヴィニョン捕囚の終焉)の黒幕だとされ、教皇から託された多くの使命を遂行した。彼女の『対話』や数百通もの手紙や数十編の祈りもまた、イタリア文学史における突出した地位を彼女に与えている。
生涯

カテリーナ・ディ・ヤコポ・ディ・ベニンカーサ(Caterina di Jacopo di Benincasa) は、1347年3月25日にシエーナ共和国(現:イタリア)のシエナで、地元の詩人の娘ラパ・ピアジェンティと染物職人ヤコポ・ディ・ベニンカーサとの間に生まれた[7]。カテリーナの生家は現存する。ラパは約40歳の時、双子の娘カテリーナとジョヴァンナを早産した。彼女は既に22人の子供を産んでいたがその半分は死去。ジョヴァンナも乳母が取り出すや生後すぐに死亡した[6]。カテリーナは母親に育てられ、健康な子供に成長した。子供の頃カテリーナはとても陽気だったので、家族は彼女に「喜び」を意味するギリシャ語「エウフロシネ」の愛称を与えた[8]

彼女の聴罪司祭であるライモンド・ダ・カプアの著した伝記『S. Caterina da Siena, Legenda maior』[3][注釈 4]』では、彼女が5歳か6歳のときに最初のキリストの幻を見たと書かれている。彼女が兄と一緒に結婚した姉を訪ねて帰る途中、ペテロパウロヨハネ使徒達を従えて玉座に座るキリスト (Christ in Majesty) の幻視を経験したとされる[4]。ライモンドは続けて、カテリーナは7歳の時に人生を神に捧げると誓ったとしている[6][8][9]

カテリーナが16歳の時、姉ボナヴェンチューラが妊産婦死亡した。この苦悩が癒えないうちにカテリーナは、両親が自分にボナヴェンチューラの寡夫との結婚を望んでいることを知った。彼女は断固反対して、厳格な断食を始めた。断食に加えて、カテリーナは自分の長い髪を切り落としてしまい、母親をさらに落胆させた[10]1475年に製作された豆像

彼女は胸中で父親をキリストの代理に据えたほか、母親を聖母マリアに、そして兄弟たちを使徒達に置き換えた。謙虚に仕えることが、霊的成長の機会となった。一方でカテリーナは結婚および母になる道を歩むことに抵抗し、かといって修道女のベール受け入れにも抵抗した。彼女は、ドミニコ会の規範に従って積極的かつ祈りに満ちた生活を修道院の外で行うことを選んだ[11]


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