シェーンブルン宮殿
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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度11分7秒 東経16度18分45秒 / 北緯48.18528度 東経16.31250度 / 48.18528; 16.31250

シェーンブルン宮殿と
庭園群
オーストリア

シェーンブルン宮殿
英名Palace and Gardens of Schonbrunn
仏名Palais et jardins de Schonbrunn
登録区分文化遺産
登録基準(1), (4)
登録年1996年(ID786)
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

使用方法表示

シェーンブルン宮殿(シェーンブルンきゅうでん、ドイツ語: Schloss Schonbrunn)は、オーストリアの首都ウィーンにある宮殿ハプスブルク王朝の歴代君主が、主に夏の離宮として使用した。

現在、同宮殿と庭園群は世界遺産に登録されている(ID786)。
歴史
前史「美しい泉」の発見者、皇帝マティアスカッターブルクとゴンザーガ宮殿(1672年)

14世紀初頭、現在のこの地には「Khattermuhle」と呼ばれる水車小屋が建っており、周辺の農地とともにクロスターノイブルク修道院(ドイツ語版)の荘園とされていた[1]。修道院の良い財源であったが、1529年第一次ウィーン包囲によって荒廃した[1]。その後、ヘルマン・バイアー(Hermann Bayr)が借り受け、「カッターブルク(Katterburg、のちにGatterburg)」という小さな城を築いた[1]

1569年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世によって購入された[1]。マクシミリアン2世は一帯を狩猟地として利用した[2]。カッターブルクを改築し、広大なブドウ畑や動物の飼育園などを設け、しばしばこの地に逗留した[1]

マクシミリアン2世の子・ルドルフ2世の治世下である1605年に、ハンガリーボチカイ・イシュトヴァーンに襲撃されて破壊された[1]1608年、ルドルフ2世の弟・マティアス大公の手に渡り、狩猟館が設けられた[1]1619年、狩猟に興じていた皇帝マティアスによって「美しい(.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}Schoner(シェーナー))泉(Brunnen(ブルンネン))」が発見され、これが「シェーンブルン」の由来となった[2]。マティアスの跡を襲ったフェルディナント2世は、この地を皇后エレオノーラ・ゴンザーガに贈った[1]

1683年第二次ウィーン包囲によって再び荒廃した[1]
宮殿建設

オスマン帝国の脅威が去った後、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は、息子・ローマ王ヨーゼフの夏の離宮として、この地に新しい宮殿を建設することを決意した[1]
第1計画案 上:「シェーンブルン宮殿」第1案[3](1688年)
下:同時代の仏・ヴェルサイユ宮殿(1668年)

神聖ローマ帝国の往時の勢威を回復させたいという願望ゆえに、新しい宮殿には、神話歴史からの陰喩を駆使する英雄的表現が期待された[4]。設計を嘱託されたヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハは、パリヴェルサイユ宮殿に対抗して、それを模しつつも凌駕する、壮大な宮殿を計画した[2]。それは、神聖ローマ皇帝という存在はフランス王権を凌駕するものでなければならないと考える宮廷、領邦君主、貴族たちの願望の現れであった[4]

この計画によれば、現在グロリエッテのある丘陵を宮殿の建設場所とし、斜面北側をテラスにして、それをグロットをもつ擁壁で支えることになっていた。そして主庭園は斜面南側に展開されることになっていた[1]
第2計画案「シェーンブルン宮殿」第2案(1696年)

しかし、当時のハプスブルク宮廷の苦しい財政事情では第1案のように壮大な宮殿を建設することは現実的に困難だったため、計画は大幅に縮小されて、遥かに簡素な第2案が設計し直された[1]

第2案は、宮殿を丘陵に建設するのは諦めてその下に建設し、主建築に両翼をつけるというものだったが、それも直ちには実現されなかった[1]マリア・テレジア治世下の1750年頃、エルラッハの第2案を骨子として、ニコラウス・フォン・パカッシー(ドイツ語版)によって完成された。

外壁はを塗る計画であったが、マリア・テレジアが財政状況を考慮し、黄金に近い黄色にした[要出典]。これを「テレジア・イエロー」という[要出典]。
夏の離宮1765年、兄・ヨーゼフ2世の婚礼を祝賀して踊る、当時10歳のマリー・アントワネット[5][6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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