シェール
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この項目では、アメリカの歌手/女優について説明しています。

岩石のシェールについては「頁岩」をご覧ください。

その他のシェールについては「シェール (曖昧さ回避)」をご覧ください。

「Cher」はこの項目へ転送されています。ISOでCher (ISO 15924)と表記される文字については「チェロキー文字」をご覧ください。

シェール
Cher
2010年
本名Cherilyn Sarkisian (出生時)
生年月日 (1946-05-20) 1946年5月20日(77歳)
出生地カリフォルニア州エルセントロ
国籍 アメリカ合衆国
職業歌手俳優
ジャンルポップディスコダンスフォーク
活動期間1963年 -
配偶者ソニー・ボノ
(1964?75年)
グレッグ・オールマン
(1976?79年)
著名な家族チャズ・ボノ
公式サイト[3]

 受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1987年月の輝く夜に
カンヌ国際映画祭
女優賞
1985年『マスク』
エミー賞
バラエティ/音楽部門
2003年『"Cher: The Farewell Tour"』
グラミー賞
最優秀ダンス・レコーディング賞
2000年『"ビリーヴ"』
名誉賞
2017年『"I Got You Babe"』
ゴールデングローブ賞
女優賞(ミュージカル・コメディ部門)
1987年『月の輝く夜に』
助演女優賞
1983年シルクウッド
主演女優賞(コメディシリーズ)
1974年『The Sonny & Cher Comedy Hour』
その他の賞
ケネディ・センター名誉賞
2018年『ビリーヴ』は世界中のヒット曲をランキングしたワールドチャートにて現在歴代1位を保持『"Look At Us"』が発表された1965年から2018年の『"Dancing Queen"』まで48年以上の歳月にわたってビルボード上でtop5に入るアルバムをリリースした人物

備考
ハリウッド名声の歩道
ロックの殿堂(パフォーマー部門)殿堂入り[1]
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シェール(Cher [????r], 1946年5月20日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州エル・セントロ出身の歌手女優
来歴

父親ジョン・サーキシアンはアルメニア系、母親ジャッキー・ジェーン・クラウチはチェロキー・インディアン、アイルランド、ドイツ等の血を引く[2]。両親はシェールが10ヵ月の時に離婚したが、その後も数回結婚・離婚を繰り返したという[3]。母親は後にジョージア・ホルトの名前で女優としてテレビに出演するようになり、シェールも子供時代にエキストラとして出演したことがある。しかし母親の再婚・離婚に伴い転居の多い貧しい幼少時代であった[4]

16歳で学校を中退し、ロサンゼルスに移って演技のクラスを受けるようになる。歌手のソニー・ボノに見出され18歳で彼と結婚。"ソニー&シェール"の名で活動を始め、「アイ・ガット・ユー・ベイブ」などがヒットしたが、1975年に離婚。

デュオと並行して、1966年頃よりソロとしても活躍し始める。チェロキーの血筋を全面に押し出したイメージ戦略で「悲しきジプシー」「ハーフ・ブリード」「ダーク・レディ」(邦題は「悲しき恋占い」)などが全米No.1に輝き、日本でも頻繁にラジオで流された。

1975年6月にはグレッグ・オールマンと結婚するが、結婚から9日後にシェールが離婚訴訟を提起するというトラブルもあった[5]。その後オールマンと和解し、1977年には「オールマン・アンド・ウーマン」名義でオールマンとのデュエット・アルバム『Two the Hard Way』をリリースしたが[5]、1979年に離婚。

その後はディスコサウンドも取り入れた「Take Me Home」(邦題は「誘惑の扉」)が1979年に大ヒット。がその後に発表した「Prisoner」以降はヒットに至らず、1982年の「I Paralzye」を最後に1987年までの5年間、女優業の方へ活動をシフトした。1987年にゲフィン・レーベルに移籍し、マイケル・ボルトンデスモンド・チャイルドらがソングライティングに加わったロック色の濃いアルバム『Cher』をリリース。ファーストシングルの「I Found Someone」が10位、セカンドシングルの「We All Sleep Alone」が14位とシングルヒットを飛ばした。アルバムもプラチナディスクを獲得している。

その後、ピーター・セテラとのデュエット「After All (Love Theme From Chances Are)」が6位とヒットを放っている中で、アルバム『Heart Of Stone』リリース。レコーディングには、当時彼女と付き合っていたボン・ジョヴィリッチー・サンボラも加わっている。このアルバムからのファーストシングル「If I Could Turn Back Time」が3位とヒットを放つと、続く「Just Like Jesse James」が8位、サードシングルの「Heart of Stone」も8位とヒットシングルを連発した。特に「If I Could Turn Back Time」のプロモーションビデオはアメリカ海軍の軍艦上でロケが行なわれ、多数の水兵のエキストラを前にしてのT-バックスーツでの出で立ちが耳目を惹いた。

その後、1991年に『Love Hurts』。ワーナーへの移籍を経て、1995年に『It's a Man's World』をリリースするものの、ビッグヒットには到らなかった。

しかし、1998年にヨーロッパで先行してリリースしたシングル「Believe」が大ヒット。その後、各国で1位を記録した。このヒットを受け"Believe"は米国でも1位を獲得し、世界を席捲した。この曲により、彼女はグラミー賞最優秀ダンス・レコーディング賞を受賞し、自身初のグラミー受賞を果たしている[6]。しかも、この「Believe」は世界中のヒット曲をランキングしたワールドチャートにて現在歴代1位という輝かしい大記録を保持している。

1999年には、ニューヨークビーコン・シアターで行われたディーヴァズ・ライヴに、ティナ・ターナーエルトン・ジョンホイットニー・ヒューストンらと共に出演、「If I Could Turn Back Time」「Believe」の2曲と、ティナ・ターナーエルトン・ジョンと共に「Proud Mary」の合わせて3曲を披露した。同様に2002年にラスベガスMGMグランドで行われた「ディーヴァズ・ライヴ エルヴィス・プレスリー・トリビュート」にもセリーヌ・ディオンメアリー・J. ブライジディクシー・チックスらと共に出演し、「Believe」「Song for the Lonely」「Heartbreak Hotel」(「ハートブレイク・ホテル」、エルヴィス・プレスリーのヒット曲)の3曲と、シンディ・ローパーとのデュエットで「If I Could Turn Back Time」の合わせて4曲を披露した。2000年以降は、北米、ヨーロッパを中心に大規模なワールド・ツアーを開催した。「フェアウェル・ツアー」と題された最後のワールド・ツアーも数年に渡り行われ大成功を収めた(のちに2014年に北米のみでツアーを行い、2018年から2019年度の秋にかけてオセアニア・北米・ヨーロッパとツアーを敢行する予定である)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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