シェイクスピア外典(シェイクスピアがいてん、Shakespeare Apocrypha)は、かつてはシェイクスピアの作品(正典)とみなされていたものの、現在では別人によるものと判定された、もしくは、真作である可能性はあるが断定する根拠に乏しい一群の作品のことである。これは、シェイクスピアの真作と認められるものについて、その作者の正体をめぐって展開される議論(別項「シェイクスピア別人説」を参照)とは別の問題である。 シェイクスピアの生前に印刷に付された戯曲は、全作品のうちの約半数にすぎない。それらの戯曲は四折判
問題の背景
シェイクスピアの死後7年目にあたる1623年、同僚の俳優ジョン・ヘミングス
(John Heminges)とヘンリー・コンデル(Henry Condell)はシェイクスピアの戯曲全集を編纂した(詳細は別項「ファースト・フォリオ」参照)。この2人が編集責任者の役割を担ったのは、エリザベス朝時代のイギリスにおいては戯曲の著作権が著作者ではなくそれを上演する劇団に帰属していたので、全作品を収集・編纂するうえではシェイクスピアと同じロンドンの劇団「国王一座」に所属していた彼らが適任だったためである。したがって単純にいうならば、ファースト・フォリオに収録されているのがシェイクスピアの真作であり、収録されていないものは別人の手になるものだということになる。シェイクスピアの書いたものについては、ヘミングスとコンデルが後代の学者や二次資料よりもはるかに詳しい事情を知りうる立場にいたことは疑いようがないからである。
しかし、いくつかの複雑な事情から「シェイクスピア外典」という概念が生じることとなった。シェイクスピアの外典は以下の見出しの通りに分類することができる。 扉ページにシェイクスピアの名前(もしくは「Will.S」などのイニシャル)を付して17世紀に四折判で刊行されていながらも、ファースト・フォリオには未収録の戯曲がいくつかある。シェイクスピア愛好家の多くは、これらの戯曲のうちのいくつかはシェイクスピアによって(少なくとも部分的には彼によって)書かれたものだと信じており、実際『ペリクリーズ』などのように専門の研究者によって真作と認定されたものもある。しかし『トマス・クロムウェル』といったそれ以外の作品はあまりにも出来が悪く、とうていシェイクスピアの作品であるとは考えられない。 ヘミングスとコンデルがこれらの作品をファースト・フォリオから除外した理由はいくつか考えられる。 これらはいずれも可能性のある推測であるにすぎず、どれか一つが正しい答えというわけではない。個々の作品についてそれぞれの事情に鑑みる必要がある。
17世紀当時の外典
扉ページに書かれている著者名は単なる虚偽であり、イカサマ出版業者がシェイクスピアの名声を利用したにすぎない。
これらの戯曲はシェイクスピアと他の劇作家との合作であり、シェイクスピアの単独作ではない(ただし、現代の文体分析からやはり合作の可能性が高いことが証明されている『ヘンリー八世』、『ヘンリー六世 第1部』、『アテネのタイモン』などは除外されていないことには注意が必要である)。
シェイクスピアによるものであることは確かだが、シェイクスピアが一から執筆したのではなく、他人の作品を編纂・改作しただけなのかもしれない。あるいは、書いたのは他の人間であるもののシェイクスピアによるプロットを原案にしていたため名前が記されたのかもしれない。
それらの作品は国王一座以外の劇団のために書かれたシェイクスピアの初期作品であり、したがってファースト・フォリオを編纂していたヘミングスとコンデルは著作権をもたないため収録できなかったのかもしれない。
マーリンの誕生 (The Birth of Merlin)
シェイクスピアとウィリアム・ロウリー
ロークリンの悲劇 (Locrine)
「W.S.監修による新作」として1595年に発表された。この戯曲の格式ばった形式的韻文は決してシェイクスピア的ではないが、シェイクスピアが古くからある作品を改訂したのかもしれないと考えることは不可能ではない。同じ「W.S.」のイニシャルをもつ無名の劇作家ウェントワース・スミス(Wentworth Smith)が本当の作者であった可能性もある。
ロンドンの道楽者 (The London Prodigal)
シェイクスピアの名前で1605年に出版された。国王一座の作品なのでシェイクスピアがこの作品の成立に少しばかり関わった可能性はあるが、タッカー・ブルックもいうように「シェイクスピアの普遍性と精神的な洞察が著しく欠如している」[4]。フレデリック・ガード・フレイ(Frederick Gard Fleay)は、シェイクスピアが大雑把に書き残した粗筋をもとに他の作家が執筆したものであるかもしれないと仮定している。
ペリクリーズ (Pericles)
1609年にシェイクスピアの名前で刊行。前半と後半で文体が異なることなどから、最初の2幕は別の劇作家によって書かれた合作であると推測される。ニコラウス・デリウス(Nicolaus Delius)がこの合作者はジョージ・ウィルキンズ(George Wilkins)であろうとの学説を1868年に提示したほか、ジョン・デイ(John Day)を執筆協力者とする説もある。ゲイリー・テイラー(Gary Taylor)がいうように、ジャコビアン時代に「シェイクスピアの詩的文体は(信頼に値しないテキストにおいてさえ)同時代の他の作家と比較して著しく際立ったものとなった」[5]ため、後半5分の3ほどはシェイクスピアの文体に他ならないということは学者たちのあいだで意見が一致している。
ピューリタン (The Puritan)
「W.S.」作として1607年に出版された。この戯曲はトマス・ミドルトンによるものというのが通説となっているが、『ロークリンの悲劇』と同様、ウェントワース・スミスの作品という可能性もある。
第二の乙女の悲劇 (The Second Maiden's Tragedy)
1611年の上演台本が単行本化されないまま残された。原稿には17世紀に記された3つの書き込みがあり、それぞれトマス・ゴフ(Thomas Goffe)、シェイクスピア、ジョージ・チャップマン(George Chapman)が著者であると注記している。しかし、文体を分析した結果、トマス・ミドルトンが本当の作者であると推定されている。筆跡鑑定の専門家チャールズ・ハミルトンはこの作品こそ失われた『カルデーニオ』のシェイクスピアによる自筆原稿であると主張しているが、その議論には論理的欠陥があると指摘されている。なお、この作品には正式な題名がつけられていない。宮廷祝典局長(Master of the Revels、もともとは王室内における記念行事などを担当していたが、やがて舞台芸術全般の検閲を執り行なう権限をもつようになった部局の長)がこの作品の検閲を行なったさいに、ボーモント&フレッチャー(Beaumont and Fletcher)の『乙女の悲劇』("The Maid's Tragedy")がちょうど同時期に上演許可願いが出されていたため、「もう一つの乙女の悲劇を扱った作品」と仮に呼んで記した覚書が残されているために『第二の乙女の悲劇』という題として定着したものである。
サー・ジョン・オールドカースル (Sir John Oldcastle)
1600年の初版本では著者の名前が書かれていなかったが、1619年の再版においてシェイクスピアの作品であることが謳われた。国王一座によって上演された記録が残っていることと、『ヘンリー四世』(第1部・第2部)に実在の人物ジョン・オールドカースルをきわめて滑稽なキャラクターとして登場させたため遺族から抗議を受け、フォルスタッフと名前を変えざるをえなかった経緯があることなどから、シェイクスピアが詫び状代わりにジョン・オールドカースルを偉大な人物として描いた本作を執筆したのではないかと推測されていた。実際には、海軍大臣一座を主宰した興行主フィリップ・ヘンズロー(Philip Henslowe)の日記において、アンソニー・マンデイ(Anthony Munday)、マイケル・ドレイトン(Michael Drayton)、リチャード・ハサウェイ(Richard Hathwaye)、ロバート・ウィルソン(Robert Wilson)らの合作であることが記録されている。
トマス・クロムウェル (Thomas Lord Cromwell)
「W.S.」作として1602年に出版された。ルートヴィヒ・ティークやアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルといったごくわずかな学者を除くと、「この作品の創作にシェイクスピアがいかにわずかであれ関係していたなどと信じる者はいなかった」[6]。ウェントワース・スミスが本当の作者であると推測されている[7]。
二人のいとこの貴公子 (The Two Noble Kinsmen)
シェイクスピアとジョン・フレッチャー(国王一座の主任劇作家というシェイクスピアの地位を引き継いだ若い作家)の共作として出版された。主流派の学者はこれを事実と認定しており、単独作ではないにもかかわらず正典へ含めるのにふさわしい作品であるとの見解が広まっている。実際、1986年のオックスフォード版全集などには本作が収録されている。
ヨークシャーの悲劇 (A Yorkshire Tragedy)
シェイクスピアの作品として1608年に出版された。