ザ・ヴィレッジ・シンガーズ
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ヴィレッジ・シンガーズ
出身地
日本
ジャンルグループ・サウンズ
ロック
ポップス
歌謡曲
活動期間1966年 - 1971年
2002年 -
レーベル日本コロムビア
(1966年 - 1968年)
CBS・ソニー
(1968年 - 1971年)
テイチクエンタテインメント
(2003年 - 2008年)
ミュージック・ヴィレッジ
(2009年 - )

メンバー小松久(リーダー、ギター
清水道夫ヴォーカル、ギター)
小池哲夫キーボード、ヴォーカル)
林ゆたかドラムス
笹井一臣ベース

旧メンバー古関正裕(キーボード)
南里孝夫(12弦ギターバンジョー
森おさむ(ベース)
角田英治(ベース)

ヴィレッジ・シンガーズ(Village Singers)は、1960年代後半(昭和40年代前半)に活躍したグループ・サウンズである。
メンバー

小松久(リーダー、ギター1944年2月10日生まれ。愛称:ギョロメ。成城大学出身。

清水道夫(ヴォーカル、ギター)1945年8月17日生まれ。愛称:道路工夫。成城大学出身。

小池哲夫(キーボード、ヴォーカル)1947年11月30日生まれ。愛称:金魚。成蹊大学出身。

林ゆたかドラムス1947年2月24日生まれ。愛称:かっぱ。

笹井一臣(ベース1944年11月12日生まれ。愛称:茶々丸。

元メンバー

古関正裕(キーボード)

南里孝夫(12弦ギターバンジョー

森おさむ(ベース)

角田英治(ベース)

来歴

前身は、4人組フォークグループ、フォーク・トレッカーズ(小松久、南里孝夫、森おさむ、山岩爽子)である。1965年に、このグループから山岩が、小室等PPMフォロワーズ加入のため脱退。残りの3人に林ゆたかと古関正裕(作曲家・古関裕而の長男)が加わり、1966年6月に結成された。グループ名はフォークの聖地、ニューヨークグリニッジ・ヴィレッジ[1]に憧れていたことから名付けられた。またこの当時人気だったカレッジフォークとは異なり、エレキギター、ドラムス、そして12弦アコースティックギターを取り入れたバンド編成は斬新で真新しかった。[2]

彼らはまず、芝田村町(現・西新橋)のフォーク喫茶「ヴィレッジ」で毎週土曜日演奏することから始めた。やがてカントリー歌手寺本圭一のプロデュース[注釈 1]1966年10月に、日本コロムビア(以下コロムビア)のCBSコロムビアレーベルよりファースト・シングル「暗い砂浜」でデビューした(古関は発売前に脱退するが、初期の2枚のシングルにはいずれもレコーディングに参加している)。

当初ホリプロ側は東芝音楽工業(現・ユニバーサル ミュージック合同会社 Virgin Recordsレーベル)に曲の吹き込みを依頼するが、ハーモニーの物足りなさを理由に難色を示したディレクターから断られ、続いてコロムビアへ持ち込んだところ合格となった。(それとは逆にザ・ワイルド・ワンズはコロムビアに断られ、結果として東芝レコードと契約した。)彼らのデビュー曲はアメリカで流行っていたフォークロック調だったが、ヒットへとは結びつかなかった。翌1967年2月には2枚目のシングル「君を求めて」が発売されるも、前作同様に結果は不発となる。メンバーが意気消沈する中、南里は政治運動のため、必ず高校卒業すると誓って父親から音楽活動を許されていた森は3年で落第するに至り、2人はグループを去っていった。

残された小松と林は代わりのメンバーが揃わなければ解散を覚悟し、東京の大学を方々回ったところ、成蹊大学の学生で所属していたバンドが解散したことから暇を持て余していた小池哲夫を誘った。また明治大学を卒業したものの就職せず、当時日活で映画プロデューサーをしていた父親(笹井英男)の下でぶらぶらしていた笹井一臣をホリプロがスカウト。そして5月頃に林と共に母校の成城大学を訪れた小松は、軽音楽部の部室で髪をぼうぼうに伸ばし無精髭姿の清水道夫を見つけた。4年生の彼は大学入学後に軽音楽部のバンドでベンチャーズを経て、ビートルズ・スタイルのバンドで、歌うことの楽しさに目覚める。

だが清水のバンドは3年生の時に解散していた。清水のギターの腕前と歌唱力はまずまずで、あとは身奇麗にすればよいとメンバーに迎える。さっそく6月下旬より1週間の日程で軽井沢合宿を始め、楽器と歌の練習に励んだ。合宿終了後は直ちにコロムビアを訪ねた。そして筒美京平作曲の「バラ色の雲」は、メンバーが希望するブルー・コメッツ風の曲となり、発表を待つばかりとなった[3]。こうして1967年8月にヴィレッジ・シンガーズとして「バラ色の雲」を発表。筒美の曲の良さとサウンドが功を奏し、フジテレビの音楽番組「ヒット速報」へ10週連続出演、公称60万枚突破の大ヒットを記録した。

人気GSとなった彼らは続いて11月に「好きだから」を発売、ムーディな声質の持ち主である清水のヴォーカルと小池のキーボードプレイを前面に押し出したサウンドが相乗効果を呼ぶ事となる。そして翌1968年2月に発売され大ヒットした「亜麻色の髪の乙女」は「バラ色の雲」と並び彼らの代名詞とも呼べる作品となった。3月にはファースト・アルバム「グループ・サウンズの貴公子」を発売、着目すべき点として旧・メンバー時に発売した2枚のシングル両面を新メンバーで録り直していることが挙げられる。また、TBS「七時だ!飛び出せ!!」へのレギュラー出演が始まり、4月に「思い出の指輪」、8月には「虹の中のレモン」と同名シングルの映画化による主演作品が尾崎奈々との共演で松竹より封切られた。

同時代に活躍したザ・タイガースザ・テンプターズオックスなどといった長髪でワイルドなイメージのGSと、彼らが異なる最大の理由として、短髪のサラリーマン風、優等生的な容姿と、中流的、あるいは上流的なイメージが挙げられる。7枚目のシングル「星が降るまで」が発売された8月は兵庫県宝塚市宝塚大劇場にてリサイタルを開催し、ヅカガールと共演。これはGSとしては初であった。秋に入り、新たに発足したCBS・ソニーレコード(現・ソニー・ミュージックレーベルズ)移籍第1弾シングル「落葉とくちづけ」が11月に発売されたが、GSブームの衰退もあり、この曲以後グループの人気は下降し始める。

1969年、ベースの笹井が脱退し、同年8月発売の「裸足の恋」より角田英治が参加、この頃より担当ディレクターの趣味でムード歌謡化されていった[4]

1970年6月発売のラストアルバム「恋と女とむせび泣き」は完全な清水のソロと言っても過言ではない内容で前年に発売され大ヒットを記録した「長崎は今日も雨だった」で知られる内山田洋とクール・ファイブめいたムード歌謡そのものである。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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