ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
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ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション
The Mothers of Invention
1971年。左からハワード・カイラン、ジム・ポンズ、イアン・アンダーウッド、マーク・ボルマン、フランク・ザッパ、ボブ・ハリス、エインズレー・ダンバー。
基本情報
出身地カリフォルニア州ポモナ
ジャンルロック
活動期間1965年5月 - 1969年10月
1970年6月 - 1971年12月
1973年2月 - 1976年3月
レーベルヴァーヴ・レコード
ビザール・レコード
リプリーズ・レコード
ディスクリート・レコード

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション (The Mothers of Invention) は、1965年から1976年まで活動したアメリカ合衆国ロック・バンドである。作曲家ギタリストフランク・ザッパに率いられて彼の作品を演奏した[注釈 1]
概要
活動時期

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの活動時期は、主に以下の3つの期間である。

1965年5月のザ・マザーズの誕生から1969年10月の解散宣言まで。

1970年6月の再結成から1971年12月のロンドン公演まで。

1973年2月の再結成から1976年3月のワールド・ツアー終了まで。

但し、ザッパは、これらの活動時期に挟まれた2つの活動休止期にも、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション名義の短期の活動を主導した[注釈 2]
ザッパのソロ活動との相違点

上記の活動期間と活動休止期間を通じて、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション名義のオリジナル・アルバムは14作、ザッパのソロ・アルバムは4作[注釈 3]発表された。

ザッパは1976年の夏に、アルバムの名義について、以下の発言を残した[1]。ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション名義のアルバムとフランク・ザッパ名義のアルバムを区別するものは、そのアルバムの制作に参加したバンドがコンサート・ツアーに出るザ・マザーズ・オブ・インヴェンションというユニットであるかどうかだ。

また、1973年には、同様の話題について以下の発言を残した[1]。ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの音楽は、それをグループの音楽として表現できるほど十分に長い期間一緒に活動してきた人々だけが演奏できるものだ。もし自分が楽譜を書いてどこかのオーケストラに手渡しても、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの音楽は生まれてこない。自分が曲を書いてスタジオ・ミュージシャンのグループに手渡せば、おそらく楽譜に忠実で極めて正確に演奏してくれるだろう。だがグループのメンバー一人一人が持っている狂気(craziness)の総和が得られなければ、つまり、グループが十分に長く活動してツアーに出てメンバー全員の個性が混ざり合ってごく自然に奇妙な演奏ができるようになられなければ、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの音楽は生まれてこない。

このように、少数の例外[注釈 4]を除いて、ザッパはザ・マザーズ・オブ・インヴェンションのライブ活動に基づいてアルバムの名義を決めていた。
バンド名について

ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションという名前が生まれるきっかけを作ったのは、デビュー・アルバム『フリーク・アウト!』(1966年)の発売元のヴァーヴ・レコードの親会社であるMGMレコードだった。MGMレコードは『フリーク・アウト!』の発売に際して、当時のバンド名だったザ・マザーズが放送禁止用語を連想させるとして、バンド名を変えることを要求した[2]

1968年、ヴァ―ヴ・レコードとの契約が切れると、彼等はザッパがマネージャーのハーブ・コーエンと共同で設立した独立レーベルのビザール・レコードに移籍して、配給元になったヴァ―ヴ・レコードから4作目の『クルージング・ウィズ・ルーベン&ザ・ジェッツ』と編集アルバム『マザーマニア』を発表した。後者のジャケットには"The Best of The Mothers"の副題が記され、ザ・マザーズの名前が復活して、ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション以外の名前が使用された最初の例になった。以後、配給元がリプリーズ・レコードになり、さらに1973年にザッパとコーエンが新たに設立したディスクリート・レコードに移籍して配給元のワーナー・ブラザーズからアルバムを発表する1975年頃までには、マザーズ、ザッパ・アンド・マザーズ、ザッパ/マザーズ[注釈 5]、フランク・ザッパ・アンド・ザ・マザーズ・オブ・インヴェンション[注釈 6]など様々な名前がアルバムやコンサートの名義に用いられてきた。

本ページでは、呼称をザ・マザーズ・オブ・インヴェンションに統一して、その略語であるMOI[注釈 7]を用いる。
活動の歴史
1965年から1969年10月まで

1965年4月、カリフォルニア州クカモンガでスタジオZを所有して様々なレコーディングを行なっていたザッパは、旧知のボーカリストのレイ・コリンズから電話を受けた。彼等は1962年にコリンズの出身地であるポモナで出会い、同年から1963年にかけて、スタジオZの前身であるパル・レコーディング・スタジオ[注釈 8]で、ザッパの単独作や二人の共作を共同でレコーディングした[注釈 9]間柄だった。1965年当時、コリンズは義理の兄弟と大工として働きながら、ポモナのザ・ブロードサイドというバーでザ・ソウル・ジャイアンツ(The Soul Giants)というR&Bのカバー・バンドのボーカリストとして活動していた。彼等はギタリストを失ったばかりで[注釈 10]、メンバーはリーダー格のデイヴィ・コロナード(サクソフォーン)、ジミー・カール・ブラック(ドラムス)、ロイ・エストラーダ(ベース・ギター)、そしてコリンズ(ボーカル)の4名だった。コリンズが一年近く連絡を取っていなかったザッパに電話したのは、彼を後任のギタリストに勧誘する為だった[注釈 11][3]

ザッパはコリンズの勧誘に応じてザ・ソウル・ジャイアンツに加入したが、メンバーに他人の曲ではなくオリジナル曲を演奏してレコード会社と契約しようと提案した。コロナードは、そのような事をすれば自分達はクラブやバーで演奏する仕事を失ってしまう、とザッパの提案に唯一人反対して去っていった。残ったコリンズ、ブラック、エストラーダはザッパと共に彼のオリジナル曲を演奏し始めたが、クラブやバーでの仕事が長続きしなくなり、コロナードの予測が正しかったことを悟った[4]

1965年5月9日、彼等はバンド名をザ・マザーズ(The Mothers)に変更した[注釈 12][5]。そしてより多くの機会を求めて、活動の拠点をポモナからハリウッドに移した[注釈 13]。10月、彼等はハーブ・コーエンとマネージメントの契約を結び[6]、コーエンの尽力でウィスキー・ア・ゴー・ゴーに定期的に出演するようになった[注釈 14]


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