ザ・ホリーズ
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日本の喫茶店運営企業については「ホリーズカフェ」をご覧ください。

ホリーズ
左からエリック・ヘイドック、アラン・クラーク、グラハム・ナッシュ、トニー・ヒックス、ボビー・エリオット(1964年)
基本情報
出身地 イングランド サルフォード
ジャンル.mw-parser-output .hlist ul,.mw-parser-output .hlist ol{padding-left:0}.mw-parser-output .hlist li,.mw-parser-output .hlist dd,.mw-parser-output .hlist dt{margin-right:0;display:inline-block;white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dt:after,.mw-parser-output .hlist dd:after,.mw-parser-output .hlist li:after{white-space:normal}.mw-parser-output .hlist li:after,.mw-parser-output .hlist dd:after{content:" ・\a0 ";font-weight:bold}.mw-parser-output .hlist dt:after{content:": "}.mw-parser-output .hlist-pipe dd:after,.mw-parser-output .hlist-pipe li:after{content:" |\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-hyphen dd:after,.mw-parser-output .hlist-hyphen li:after{content:" -\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-comma dd:after,.mw-parser-output .hlist-comma li:after{content:"、";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist-slash dd:after,.mw-parser-output .hlist-slash li:after{content:" /\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li:last-child:after{content:none}.mw-parser-output .hlist dd dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dd li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dd:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li dt:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li li:first-child:before{content:" (";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist dd dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dd li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist dt li:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dd:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li dt:last-child:after,.mw-parser-output .hlist li li:last-child:after{content:")\a0 ";font-weight:normal}.mw-parser-output .hlist ol{counter-reset:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li{counter-increment:listitem}.mw-parser-output .hlist ol>li:before{content:" "counter(listitem)" ";white-space:nowrap}.mw-parser-output .hlist dd ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist dt ol>li:first-child:before,.mw-parser-output .hlist li ol>li:first-child:before{content:" ("counter(listitem)" "}

ポップ・ロック[1]

リバプールサウンド[1]

フォークロック[1]

サイケデリア[1]

活動期間1962年 -
レーベル

パーロフォン

エピック

公式サイトホリーズ公式サイト

メンバー

トニー・ヒックス(ギター)

ボビー・エリオット(ドラムス)

レイ・スタイルズ

イアン・パーカー

ピーター・ハワース

スティーヴ・ラウリ


旧メンバーメンバーを参照

ホリーズ(: The Hollies)は、イギリスロックバンド。1962年に結成され、ブリティッシュ・インヴェイジョンを代表するバンドの一つであり、3声のハーモニーが特徴だった。1966年に発売したシングル『バス・ストップ』でアメリカでも大ヒットを記録した。2010年にロックの殿堂入りをした。
来歴

アラン・クラークグラハム・ナッシュの2人は、マンチェスター市内の小学校の同級生として出会った。2人は親友となり、ギターを弾きながら歌うコーラス・デュオを結成。エヴァリー・ブラザーズの影響をうけた「リッキー・アンド・デイン(ヤング)」と名乗るデュオは活動の場を広げ、エリック・ヘイドックがベーシストとして在籍していたバンドとの共演を果たした。2人はヘイドックと新バンドの結成を決断する。そしてドラムのドン・ラスボーン、リードギターのヴィック・ファレルを加え、1962年に「ドミネイターズ・オブ・リズム」というバンドが結成された。

同年12月、マンチェスターのライブハウス「オアシス・クラブ」に出演した際、楽屋で関係者からバンド名を問われたメンバーは、ホリーズと紹介するよう答えた[2]。ナッシュは、バディ・ホリーへのあこがれから「ホリーズ」と名付けたと回想している[3]。ファレルは安定した生活を捨ててプロになることに難色を示し、バンドを脱退してしまう。ギタリスト不在となったホリーズは、アマチュア・バンド「ザ・ドルフィンズ」のギタリストで16歳のトニー・ヒックスを勧誘した。

1963年1月、リヴァプールキャヴァーン・クラブに出演したホリーズは、ビートルズに続くバンドを探していたEMIパーロフォンのプロデューサーであったロン・リチャーズの接触を受けた。直ちにEMIのオーディションに合格したホリーズは、パーロフォンと所属契約を結ぶ。

1963年4月、ホリーズのプロとして初の録音がアビイ・ロードにあるEMIスタジオで行われる。そして翌5月にシングル『(Ain't That) Just Like Me』でレコード・デビューし、全英シングルチャートで最高位25位を獲得した[4]。だが、ラスボーンの技量に満足していなかったリチャーズはドラマーの交代を勧め、ラスボーンをロード・マネージャーに転向させる。後任にはヒックスのドルフィンズ時代の僚友であったボビー・エリオットが加入した。これによりクラーク、ナッシュ、ヒックス、エリオット、ヘイドックの5人体制が完成した。

1963年12月、3枚目のシングルの『ステイ』[注 1]が初の全英チャート上位10位に到達した。1964年1月に発売したファースト・アルバム『ステイ・ウィズ・ザ・ホリーズ』は、全英2位の大ヒットを記録する。この成功により、デビュー1年未満の新人バンドでありながら、ホリーズは3月にNMEポールウィナーズ・コンサートへの出演を決めた。1966年にはヘイドックがマネジメント料を巡る問題で脱退し、ドルフィンズのベーシストであったバーニー・カルヴァ―トが加入する。同年6月のシングル「バス・ストップ[注 2]は全英シングルチャートで最高位5位[4]Billboard Hot 100でも最高位5位を獲得し、ホリーズは世界的な知名度を獲得した。

1966年10月、5枚目のアルバム『フォー・サーテン・ビコーズ』は、クラーク、ナッシュ、ヒックスによる自作曲だけで構成された初のアルバムとなった。続く1967年6月、サイケデリック・ロックを中心とする『エヴォリューション』を発表。同年シングルでは「オン・ア・カルーセル」「キャリー・アン」などを発表しヒットさせた。同年11月にはナッシュが主導したコンセプト・アルバム『バタフライ』を発表する。しかし、このアルバムと、同時期にナッシュが作曲したシングル「キング・マイダス」の商業的失敗により、ポップな楽曲を志向していたクラークとヒックスから反発を招いてしまう。

1968年、ボブ・ディランのカバーのみで構成されたアルバムを録音する際、ナッシュが難色を示しバンドと対立、同年12月に脱退することとなる。その後ナッシュはバーズを脱退したデヴィッド・クロスビーバッファロー・スプリングフィールドスティーブン・スティルスと共にクロスビー、スティルス&ナッシュを結成した。後にニール・ヤングも加わり、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング(CSN&Y)となった。なおナッシュ離脱前の1968年4月に、日本公演を果たしている。

一方のホリーズは1969年2月、スウィンギング・ブルー・ジーンズのテリー・シルヴェスターを加えシングル「ごめんねスザンヌ」を発表。同年5月にはボブ・ディランのカバーアルバム『ホリーズ・シング・ディラン』を発表した。1970年には「ヒー・エイント・ヘヴィ・ヒーズ・マイ・ブラザー(兄弟の誓い)」をヒットさせている。

1971年12月、クラークがソロ活動をするため脱退。クラークの後任としてスウェーデン人歌手ミカエル・リックフォースをボーカルとして加えるも、人気は低迷。しかし皮肉にも1972年5月にクラーク脱退前の楽曲「ロング・クール・ウーマン(喪服の女)」が発売され全米2位に到達する。1973年にはバンドからの要請でクラークが再加入。1974年に発売されたシングル「ジ・エアー・ザット・アイ・ブリーズ(安らぎの世界へ)」[注 3]がヒットした。


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