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ホリーズ
左からエリック・ヘイドック、アラン・クラーク、グラハム・ナッシュ、トニー・ヒックス、ボビー・エリオット(1964年)
基本情報
出身地 イングランド サルフォード
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ポップ・ロック[1]
リバプールサウンド[1]
フォークロック[1]
サイケデリア[1]
活動期間1962年 -
レーベル
パーロフォン
エピック
公式サイトホリーズ公式サイト
ホリーズ(英: The Hollies)は、イギリスのロックバンド。1962年に結成され、ブリティッシュ・インヴェイジョンを代表するバンドの一つであり、3声のハーモニーが特徴だった。1966年に発売したシングル『バス・ストップ』でアメリカでも大ヒットを記録した。2010年にロックの殿堂入りをした。 アラン・クラークとグラハム・ナッシュの2人は、マンチェスター市内の小学校の同級生として出会った。2人は親友となり、ギターを弾きながら歌うコーラス・デュオを結成。エヴァリー・ブラザーズの影響をうけた「リッキー・アンド・デイン(ヤング)」と名乗るデュオは活動の場を広げ、エリック・ヘイドックがベーシストとして在籍していたバンドとの共演を果たした。2人はヘイドックと新バンドの結成を決断する。そしてドラムのドン・ラスボーン、リードギターのヴィック・ファレルを加え、1962年に「ドミネイターズ・オブ・リズム」というバンドが結成された。 同年12月、マンチェスターのライブハウス「オアシス・クラブ」に出演した際、楽屋で関係者からバンド名を問われたメンバーは、ホリーズと紹介するよう答えた[2]。ナッシュは、バディ・ホリーへのあこがれから「ホリーズ」と名付けたと回想している[3]。ファレルは安定した生活を捨ててプロになることに難色を示し、バンドを脱退してしまう。ギタリスト不在となったホリーズは、アマチュア・バンド「ザ・ドルフィンズ」のギタリストで16歳のトニー・ヒックスを勧誘した。 1963年1月、リヴァプールのキャヴァーン・クラブに出演したホリーズは、ビートルズに続くバンドを探していたEMIパーロフォンのプロデューサーであったロン・リチャーズ
来歴
1963年4月、ホリーズのプロとして初の録音がアビイ・ロードにあるEMIスタジオで行われる。そして翌5月にシングル『(Ain't That) Just Like Me』でレコード・デビューし、全英シングルチャートで最高位25位を獲得した[4]。だが、ラスボーンの技量に満足していなかったリチャーズはドラマーの交代を勧め、ラスボーンをロード・マネージャーに転向させる。後任にはヒックスのドルフィンズ時代の僚友であったボビー・エリオットが加入した。これによりクラーク、ナッシュ、ヒックス、エリオット、ヘイドックの5人体制が完成した。
1963年12月、3枚目のシングルの『ステイ』[注 1]が初の全英チャート上位10位に到達した。1964年1月に発売したファースト・アルバム『ステイ・ウィズ・ザ・ホリーズ』は、全英2位の大ヒットを記録する。この成功により、デビュー1年未満の新人バンドでありながら、ホリーズは3月にNMEポールウィナーズ・コンサートへの出演を決めた。1966年にはヘイドックがマネジメント料を巡る問題で脱退し、ドルフィンズのベーシストであったバーニー・カルヴァ―トが加入する。同年6月のシングル「バス・ストップ」[注 2]は全英シングルチャートで最高位5位[4]、Billboard Hot 100でも最高位5位を獲得し、ホリーズは世界的な知名度を獲得した。
1966年10月、5枚目のアルバム『フォー・サーテン・ビコーズ』は、クラーク、ナッシュ、ヒックスによる自作曲だけで構成された初のアルバムとなった。続く1967年6月、サイケデリック・ロックを中心とする『エヴォリューション』を発表。同年シングルでは「オン・ア・カルーセル」「キャリー・アン」などを発表しヒットさせた。同年11月にはナッシュが主導したコンセプト・アルバム『バタフライ』を発表する。しかし、このアルバムと、同時期にナッシュが作曲したシングル「キング・マイダス」の商業的失敗により、ポップな楽曲を志向していたクラークとヒックスから反発を招いてしまう。
1968年、ボブ・ディランのカバーのみで構成されたアルバムを録音する際、ナッシュが難色を示しバンドと対立、同年12月に脱退することとなる。その後ナッシュはバーズを脱退したデヴィッド・クロスビー、バッファロー・スプリングフィールドのスティーブン・スティルスと共にクロスビー、スティルス&ナッシュを結成した。後にニール・ヤングも加わり、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング(CSN&Y)となった。なおナッシュ離脱前の1968年4月に、日本公演を果たしている。
一方のホリーズは1969年2月、スウィンギング・ブルー・ジーンズのテリー・シルヴェスターを加えシングル「ごめんねスザンヌ」を発表。同年5月にはボブ・ディランのカバーアルバム『ホリーズ・シング・ディラン』を発表した。1970年には「ヒー・エイント・ヘヴィ・ヒーズ・マイ・ブラザー(兄弟の誓い)」をヒットさせている。
1971年12月、クラークがソロ活動をするため脱退。クラークの後任としてスウェーデン人歌手ミカエル・リックフォースをボーカルとして加えるも、人気は低迷。しかし皮肉にも1972年5月にクラーク脱退前の楽曲「ロング・クール・ウーマン(喪服の女)」が発売され全米2位に到達する。1973年にはバンドからの要請でクラークが再加入。1974年に発売されたシングル「ジ・エアー・ザット・アイ・ブリーズ(安らぎの世界へ)」[注 3]がヒットした。