ザ・プロディジー
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この項目では、バンドについて説明しています。MCについては「プロディジー (MC)」をご覧ください。
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ザ・プロディジー
The Prodigy
キース(左)とマキシム(右)
基本情報
出身地 イングランド
ジャンルテクノ
オルタナティヴ・ロック
ビッグ・ビート
活動期間1990年 -
レーベルXLレコーディングス
テイク・ミー・トゥ・ザ・ホスピタル
クッキング・ヴァイナル
公式サイトtheprodigy.com(英語)

メンバーリアム・ハウレット
マキシム

旧メンバーリロイ・ソーンヒル
キース・フリント

ザ・プロディジー(The Prodigy)は、イギリステクノ / エレクトロロック・バンド

1980年代末期のレイヴカルチャーをその出身基盤にもち、ロックテクノの積極的な融合を試みることで、その先駆者として既存の電子音楽の持つ可能性を大きく押し広げた[要出典]。特に、世界的なヒットを記録した3rdアルバム『ザ・ファット・オブ・ザ・ランド』は、1990年代におけるダンス・ミュージックの到達点、金字塔と評される[要出典]。
メンバー

リアム・ハウレット(Liam Howlett
)(プログラミング、キーボード)
バンドのリーダーであり、楽曲の製作とライブのサウンドシステムを一手に引き受ける。バンドのかたわらDJとしても活躍している。幼少時代にクラシック音楽の英才教育を受けて育っており、ドラムピアノもこなすマルチ・プロデューサーである。元オアシスのフロントマンであるリアム・ギャラガーとは、妻であるオール・セインツのアップルトン姉妹を介して義理兄弟の関係にある。その縁でしばしばコラボレーションをすることがある。

マキシム(Maxim)(MC / ヴォーカルおよびダンサー)
唯一の黒人メンバーで、キースとともにプロディジーのフロントを張る。ライヴではメイン・ヴォーカルをこなし、ドレッドヘアをなびかせてカンフー空手のようなアクロバティックなダンスをしながらステージ上を縦横無尽に動き回る。他方普段は物静かでおとなしい寡黙な人柄であり、ステージ上とは好対照のキャラクターをもつ。アレキサンダー・マックイーンのデザインによるファッションショーのモデルを務めたこともある。
旧メンバー

リロイ・ソーンヒル(Leeroy Thornhill
)(ダンサー)
2000年脱退。足元のおぼつかないステップでユラユラとしたブレイクダンスを披露していた。バンドがレイヴ系から幅広い音楽性を追求していく中でその存在感が薄くなり、衆目一致でバンドを去った。後に「フライト・クランク」名義でソロ・デビュー。
近年ではDJ Hyperの作品にボーカル参加するなど他アーティストへの客演も行っている。

キース・フリント(Keith Flint)(MC / ヴォーカルおよびダンサー)
バンドのフロントマンとしてプレスへの露出が多かった。デビュー当初は肩まで伸びた長髪スタイルであったが、3rdアルバム期前後から壊れ始め(『Nogood』当時は志茂田景樹のようなトロジャン・ヘアーだった)、逆モヒカン(頭髪の中央をそり上げ、左右に残した髪の毛を逆立てた髪型)にアイシャドウをほどこした隈取メイクのヴィジュアルがトレードマークであった。その後、幾度か髪型は変わり晩年には金髪のソフトモヒカンスタイルとなっていた。ファッションも独特で、ユニオンジャックをあしらったステージ衣装が多く、本人もたびたびユニオンジャックへのこだわりを口にする(しかし本人は自らのファッションについての話題は好まない模様)。ロバート・スミス(ザ・キュアー)以来のカルト・ヒーローとして、そしてファッション・アイコンとしてニュー・ミュージカル・エクスプレス誌等の表紙を飾ることも多かった。既婚者で、妻は日本人女性である。バンドに帯同するPAスタッフを務めるかたわら、DJ Gedo Super Mega Bitch(日本では DJ mayumi)の名義でDJ活動も行っており、時折プロディジー公演の前座DJとしてハウスを中心に回すこともあった。2019年3月4日エセックスの自宅で縊死を遂げているところを発見された。49歳没[1]

シャーキー(Sharky)(ダンサー)
唯一の女性メンバーであったが、XLレコーディングスとの契約と前後して脱退している。ファーストアルバムのブックレットにおいてその名を目にすることができる。また、Voodoo People(Pendulum Remix)のMVにゲームの参加者として出演をしている(最後ゴールまでたどり着いた女性)。
経歴
バンド結成からデビューリーダーのリアム・ハウレット

1990年、イギリスのエセックスのクラブでメンバー5人が出会い、バンドが結成された。

1980年代終わりから盛り上がりを見せたセカンド・サマー・オブ・ラブシーンや、それに続くレイヴカルチャーにおける人気アーティストとして、アンダーグラウンド・シーンを賑わす存在となる。

1991年XLレコーディングスと契約(これと前後してシャーキーが脱退)。アンダーグラウンドの熱気を受けるように、リリースするシングルがイギリスのダンスチャート上位に常にランクインするようになった(シングル 「チャーリー」 や「エブリバディ・イン・ザ・プレイス」は当時のレイヴシーンを代表する曲として、今なお根強い人気がある)。

1992年にファーストアルバム『エクスペリエンス』をリリース。いち早くドラムンベースを実践し、ブレイクビーツを多用したこのアルバムは多方面から脚光を浴び、バンドは一躍メジャー・シーンにのし上がる。日本ではフジテレビで深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK』でシングル『Everybody in the Place』がUKシングルチャートでNo.1を獲得。おまけにエイベックスから発売されたコンピレーション・アルバムSUPER CLUB GROOVIN Vol.5』にも1曲目に収録されている。

1993年に初来日。当時XLの版権を持っていたエイベックスの招待で、ジュリアナ東京でレイブを行ったが、当時の日本ではプロディジーの知名度はほとんどなく、ジュリアナ東京の本来の客の反応は悪かった。一方で、プロディジーの来日を聞きつけた熱狂的ファン(渡辺健吾、当時はミニコミ誌『Delic』を主宰する一般人、のち音楽ライター)が「ジュリアナを乗っ取れ!」と記したミニコミ誌や「扇子女どもを蹴散らせ!」と記したフライヤーを配り、数百人のTシャツで汗だくの熱狂的ファンがジュリアナにもぐりこんだため(ジュリアナにはドレスコードがあったが、中で着替えた)、エイベックスの偉い人は苦々しい顔になり、お立ち台ギャルはドン引きした[2]1994年に再来日し、東京ドームで行われたエイベックス主宰のイベント「avex rave '94」で、エイベックスが用意した750名のお立ち台ギャルを含む約5万人の前で演奏を行ったが、いきなり4つ打ちガバを決めるリアム、踊りすぎてステージでこけたり客席に乱入して暴れるキースやステージ上で煽るマキシムに対して、trf目当てで来場した客の反応は渋かった。代わって、またしてもプロディジーのために東京ドームにもぐりこんだ熱狂的ファンが前に出てモッシュしはじめ、お立ち台ギャルを引きずりおろしてステージに登ろうとしたが、屈強な黒人の警備員に制止された。プロディジーは「日本初のレイヴイベント」と聞かされて来日したが、ディスコみたいなところに2 Unlimitedと同じステージに立たされ、実際は極めて商業的なイベントであったことに気づいて憤慨した。キースはジュリ扇を持った大量のお立ち台ギャルを見てショックを受けた[3]。その翌日、渡辺に「いいクラブ」と教えてもらった西麻布のイエローでレイヴを行い、満足して帰国。いちおう日本初の単独公演になるが、狭いハコというのもあり、キースがお客さんをイジったりステージに上げたりして結構フレンドリーだった。1993年当時の日本人は本場のレイヴを知らず、小室哲哉がレイヴを誤解して作ったTRFがデビューした時期であり、イギリスでヒット曲を連発していたプロディジーの版権を持つエイベックスは販売戦略上、プロディジーを「ジュリアナ東京のパワープレイ」として売り出していたが、実際にはジュリアナ東京のジュリ扇を持ったお立ち台ギャルには踊りにくいので不評だった。
2nd、3rdの世界的ヒット

1994年、セカンドアルバム『ミュージック・フォー・ザ・ジルテッド・ジェネレーション』を発表。「ブードゥー・ピープル」「ポイズン」などの斬新な手法を取り入れたトラックを中心としたこのアルバムで、オルタナティブ・ロック系サウンドを大々的に導入。

ブリットポップのバブルに沸くUKロックシーンとの相乗効果もあってアルバムは全英1位を獲得。英国内だけで100万枚を超えるセールスを記録し、バンドの人気と評価は確固たるものとなった。またこの年に二度目の来日。エイベックス主催「avex rave '94」に参加した。1995年には小室哲哉が主宰する「Avex dance Matrix '95 TK DANCE CAMP」に参加し、8月22日、本会場であるヴェルファーレの向かいにありながら全く毛色の違う場所だった「ジャングルベース」でレイブを行った(今回は残念ながら小室ファミリーとの対バンはなかった)。

大ブレイクの勢いそのままに1996年、シングル「ファイアスターター(英語版)」、「ブリーズ(英語版)」、「スマック・マイ・ビッチ・アップ(英語版)」というクラブ界の3大アンセムとなる曲を次々に発表。そして翌1997年にサードアルバム『ザ・ファット・オブ・ザ・ランド』をリリース。様々な音楽性を横断し、ダンスとロックの垣根を完全に打ち払ったこのアルバムは、英米加豪4カ国を含む全世界22カ国の最主要アルバムチャートにて初登場1位に輝き、全世界で1000万枚を超えるモンスターヒットを記録、さらに同年のグラミー賞にもノミネートされるなど(受賞は逃した)、バンドは瞬く間にして全世界的な成功を獲得するに至る。

同年のグラストンベリー・フェスティバルではダンス系アクトとして初のヘッドライナーを務める。

また、初開催となるフジロックフェスティバルにも参加(2日目に演奏予定だったが、しかしながら天候不順のためライヴは行われなかった。行き場を失って会場のふじてんから近くの富士急ハイランドになだれ込んだ多くの参加者は、ジェットコースターキング・オブ・コースターFUJIYAMAに乗ったりして楽しむキースに遭遇。一緒に写真を撮るなどフレンドリーだった)。翌1998年にはヘッドライナーとしてフジロックフェスティバルへの出演を果たしている。奇しくも97?98年頃を境に英国ではブリットポップブームが終息の兆しをみせ、シーンの主役がクラブ系アーティストへと移行する1つの潮流を作り上げることともなった。
ソロ活動期から4作目

『ザ・ファット・オブ・ザ・ランド』の大成功による世界ツアーは足掛け2年にも及んだ。あまりも長期にわたるライヴ生活によって疲労困憊したバンドはしばらく休息状態に入る。

その間、1999年にリアムがミックスDJアルバムを、翌年にはマキシムがソロ・アルバムを発表。2003年にはキースも「フリント」名義でソロ・プロジェクトを始動させる(しかしながら、諸事情によりソロ・アルバムは発売延期のままお蔵入り状態となっている)など、メンバー各自のソロ活動が活発化した。

活動休止と前後して、バンドの方向性から完全に逸脱し存在自体が希薄になっていたダンサーのリロイ・ソーンヒルが脱退し、3人組となる。

バンド活動は2001年から徐々にロック・フェスティバルを中心に再開。世界中のフェスの大トリを飾りながら、2002年には再びフジロックフェスティバルのヘッドライナーも務めた。

同2002年、前作から5年ぶりに、4枚目のアルバムへと繋ぐ位置づけとなる筈だったシングル「Baby's got a temper」(日本盤未発売)を発表。このシングルはヒットこそしたものの、「前作の延長線上、焼き直し」とメディアに袋叩きにされ、この方向性に疑問を感じたバンドは、当時半分以上完成していた4枚目のアルバムの為の曲を全て廃棄し、真の4枚目のアルバムを一から作り直し始めた。

そして2004年、前作から7年ぶりに4枚目のアルバム『オールウェイズ・アウトナンバード、ネヴァー・アウトガンド』(全英初登場1位)をリリース。前作からの脱却をテーマに、レコーディングにはマキシムとキースは参加せず、代わりにジュリエット・ルイスオアシスのギャラガー兄弟ら多くのゲスト・ボーカルを招いて製作され、全体にブレイクビート・テクノが疾走するクラブ系サウンドに回帰した仕上がりとなった。本作からは「スピットファイア」「ホット・ライド」などのヒット曲が生まれている。

2005年には初のベスト盤である『シングルス1990-2005』をリリースし、キャリアに一区切りをつけた。
インヴェイダーズ・マスト・ダイ

サマーソニック'08など数本のフェス出演を経て新作への手応えを形成させたバンドは、5作目となるアルバム『インヴェイダーズ・マスト・ダイ』を2009年に発表。『ザ・ファット・オブ・ザ・ランド』以来実に10年ぶりにマキシムとキースが参加して制作された復活作ともいうべき内容で、ビッグ・ビート当時を彷彿とさせる会心のダンスビートが多くの好レヴューを呼んだ(全英1位、ヨーロッパ主要チャートでも軒並みトップ5、日本でもオリコン8位を記録)。長期かつワールドワイドに渡るツアーと数多くのミュージックフェスへの参加を行った。日本公演においてはペンデュラムハドーケン!オートクラッツといった気鋭の後進バンドをサポートに従えての大規模なフェスが行われた。


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