ザ・ヒューマン・ベインズ
ザ・ヒューマン・ベインズ、1968年撮影。
基本情報
出身地 アメリカ合衆国
オハイオ州ストラザーズ
ザ・ヒューマン・ベインズ(The Human Beinz、[?bi??nz] BEE-inz)は、オハイオ州ヤングスタウン出身のアメリカ合衆国のロック・バンド。元々のバンド名は、ザ・ヒューマン・ビーイングズ (The Human Beingz) といい、ジョン・"ディック"・ベリー(John "Dick" Belley:ボーカル、ギター)、ジョー・"ティング"・マークリン(Joe "Ting" Markulin:ボーカル、ギター)、メル・パチュータ(Mel Pachuta:ボーカル、ベース)、ゲイリー・コーツ(Gary Coates:ドラムス)というメンバー構成だったが、コーツは後にマイク・タットマン (Mike Tatman) に交代した。
彼らは、「ノー・ノー・ノー (Nobody but Me)」の一発屋とみなされており、この曲の彼らのバージョンは、1968年に Billboard Hot 100 で最高8位まで上昇した[1]。
後述のような経緯から、バンド名の最後の語は、「ビーインズ」に近く発音される。日本語では、正規の日本盤などにはザ・ヒューマン・ベインズと表記されており、しばしば定冠詞を省いてヒューマン・ベインズとして言及される[2][3]。 このバンドは、1964年にザ・プレミアズ (The Premiers) としてプロ・ミュージシャンとしての活動を始め、地元で地域的なファンの基盤を作り出した。1966年、彼らはバンド名をザ・ヒューマン・ビーイングズに改めたが、これはそれまでのバンド名が1960年代後半の感覚にうまく合わないと感じたからであった。彼らは、ゼム、ヤードバーズ、ザ・フー、ボブ・ディランなどの楽曲をカバーして録音を重ねた。ゼミの曲である「グロリア
初期の経歴
ザ・ヒューマン・ビーイングズは、1967年にキャピトル・レコードと契約したが、その際にキャピトル側がバンド名から「g」を脱落させた。キャピトルは、1967年当時に広まっていたヒューマン・ビーイン運動に、バンド名を関連付けようと考えたのである。
バンドは、デビュー・シングルが不発に終わったら、その次のリリースからはバンド名をさらに変えるとも告げられた。1967年8月24日、「ノー・ノー・ノー」がリリースされ[4]、彼らにとって唯一の『ビルボード』誌 トップ40入りヒットとなり、キャピトルはバンド名の綴りをそのままにしておくこととした。アイズレー・ブラザーズが書き、1962年に最初に吹き込んだ曲であった「ノー・ノー・ノー」のザ・ヒューマン・ベインズによるバージョンは、1968年2月8日付で最高位の8位に達した。曲の中で2回出てくる、「no」という単語の31回の繰り返しは、ケイシー・ケイサムの著書『Book of Records』で Hot 100 の上位10位までに入った曲で最も多くの単語ないし語句の繰り返しがあった曲として取り上げられ、これに次ぐのは「I know」が26回繰り返されるビル・ウィザースの「消えゆく太陽 (Ain't No Sunshine) であるとされた。シングルのヒットに続いて、アルバム『ノー・ノー・ノー/ヒューマン・ベインズ登場 (Nobody but Me)』がリリースされた。
続いたシングル「恋に灯をつけろ」は最高80位どまりだったが、日本では大ヒットとなり、チャートの首位に立った。もともと1962年にボビー・ブランドがヒットさせたこの曲は、後にはジェリー・リー・ルイスやグレイトフル・デッドもカバーした。1968年にキャピトルは、2枚目のアルバム『エボリューションズ (Evolutions)』をリリースした。この際、シングルとして「ホールド・オン・ベイビー (Hold on Baby)」が日本限定でリリースされ、様々なチャートの首位に立つヒットとなった。1969年3月、バンドは、契約上の義務であった日本ツアーを敢行し、これによって彼らはたちまち日本における大成功を遂げた。3月29日に渋谷公会堂でおこなわれたコンサートの模様を収録したライブ・アルバム『イン・ジャパン (In Japan)』は日本限定盤としてリリースされたが[5]、後にCDがイギリスでリイシューされた[6]。 2003年、ザ・ヒューマン・ベインズは、ロックの殿堂でおこなわれたオハイオ州の音楽を取り上げた特別展示「Hang on Sloopy: The Music of Ohio」で取り上げられたバンドのひとつとなった。
リバイバル