ザ・バロン
出身地 日本
ジャンルグループ・サウンズ
活動期間1967年 - 1972年
レーベル東芝レコード
旧メンバー清須邦義
河内広明
若子内悦郎
佐々木香児
宗台春男(故人)
ザ・バロン(The Baron)とは、1967年に結成されたグループ・サウンズのバンド。NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』にヤング101のメンバーとしてレギュラー出演した[1]。 グループ・サウンズ全盛期の1967年2月、尾藤イサオ[注釈 2]のバック・バンドとして結成された。キャッチフレーズは「リズム&ブルースで新境地を開拓」。1968年、単独で初めてレコーディングに臨んだが、担当ディレクターと喧嘩してレコード・デビューの機会を逃してしまった[注釈 3]。同年9月には佐々木に代わって宗台が参加。 1969年2月に尾藤から独立し、同年6月にガールシンガーの鍵山珠里と組んだ「ジュリーとバロン」名義のシングル「ブルー・ロンサム・ドリーム」[注釈 4]でレコード・デビューを果たした。この頃、NHKの新しい音楽番組『ステージ101』のオーディションに合格して、番組の出演グループとなるヤング101[2]に加入した。 翌1970年1月10日から総合テレビでステージ101の放送が開始され、清須、河内、若子内、宗台のザ・バロンはヤング101のメンバーとしてレギュラー出演。同年11月にはザ・バロン単独名義の唯一のシングルとなった「恋の億万長者」[注釈 5]を発表した。そして1972年3月、清須が渡米する為にヤング101を卒業したのをきっかけに解散した。 河内と若子内は「ワカとヒロ」(のちに「ワカ&ヒロ」)を結成し、同年にステージ101のオリジナルソング「にくい太陽」でデビューし、1974年3月31日の最終回までヤング101のメンバーとして番組に出演し続けた。宗台は1973年4月までヤング101に在籍した。若子内と宗台は、約30年後の2003年10月21日夜、22日昼、夜の計3回にわたってBunkamuraのシアターコクーンにて開かれたヤング101復活コンサート『ステージ101?明日に架ける橋』に、元メンバー35名と共に出演した。 2005年3月8日、宗台が病没[3]。 レコード会社
メンバー
清須邦義(1948年1月26日 - 、ボーカル、ギター)元麻生京子とブルー・ファイア。
河内広明(1948年1月3日 - 、ボーカル、ギター)のちの芹澤廣明。
若子内悦郎(1949年3月30日 - 、ボーカル、ベース)
佐々木香児(ドラムス)1968年に脱退。
宗台春男(1949年1月9日 - 2005年3月8日、ドラムス)元ブルー・ファイア[注釈 1]。佐々木の脱退後に参加。
概要
ディスコグラフィ
シングル
規格品番
発売日名義面曲名作詞
(訳詞)作曲編曲
東芝
TP-2161
'69年6月1日ジュリーとバロンAブルー・ロンサム・ドリーム阿木燿子宇崎竜童和田昭治
B涙で書きたい山口あかり和田昭治和田昭治
東芝
EP-1261
'70年11月5日ザ・バロンA恋の億万長者
(If You Can Put That In A Bottle)B. Meshel
(片桐和子)B. Meshelザ・バロン
Bコンドルは飛んで行くD. A. RoblesD. A. Roblesザ・バロン
脚注[脚注の使い方]
出典^ CD『ステージ101ベスト』(Ultra-vibe CDSOL-1043/44)ライナーノーツ。
^ CD『GOLDEN☆BEST / ステージ101 ヤング青春の日々』(Sony Music House MHCL240-1)ライナーノーツ。
^ ⇒http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=32481&id=636317
注釈^ 清須が在籍していた麻生京子とブルー・ファイアの前身。
^ 尾藤は、それまで自分のバック・バンドだったブルー・コメッツに代わる新しいバンドを探していた。
^ この時に彼等が録音する予定だった「赤毛のメリー」(作詞:橋本淳/作曲:筒美京平)は、彼等が所属していた大橋プロの後輩にあたるザ・ガリバーズのデビュー・シングルとして、同年7月1日に発表された。
^ 作詞は阿木燿子、作曲は当時バンドのサブ・マネージャーを務めていた宇崎竜童で、このコンビの初作品となった。