ザ・テンプターズ
[Wikipedia|▼Menu]

ザ・テンプターズ
出身地
日本
ジャンルロック
ポップス
ブルース・ロック
職業グループ・サウンズ
活動期間1967年 - 1970年
レーベルフィリップス・レコード
事務所スパイダクション(現:田辺エージェンシー

メンバー松崎由治リード・ギターヴォーカル萩原健一:ヴォーカル、ハーモニカ田中俊夫:ギター、オルガン高久昇ベース大口広司ドラム
ローリング・ストーンズ
アニマルズ
キンクス

ザ・テンプターズ(The Tempters)は、日本グループ・サウンズ。1967年10月にフィリップス・レコードよりシングル「忘れ得ぬ君」[注釈 1]でレコードデビューした後「神様お願い!」「エメラルドの伝説」「おかあさん」「純愛」以上4曲のTOP10ヒットを生み、ザ・タイガースとともにグループ・サウンズの最盛期を支えたバンドの一つ。
メンバー

松崎由治(まつざき よしはる、ヨッチン、1946年4月16日 - )、リーダー、リード・ギター、ヴォーカル。埼玉県大宮市出身。

萩原健一(はぎわら けんいち、ショーケン、1950年7月26日 - 2019年3月26日)、本名:萩原敬三。ヴォーカル、ハーモニカ。埼玉県与野市出身。

田中俊夫(たなか としお、ブル、1946年11月1日 - 1997年1月21日)、ギター、キーボード。埼玉県大宮市出身。

高久昇(たかく のぼる、ノボル、1946年10月31日 - )、ベース。埼玉県大宮市出身。

大口広司(おおぐち ひろし、ヒロシ、1950年11月28日 - 2009年1月25日)、ドラム。埼玉県川口市出身。

来歴

1966年に埼玉県大宮市(現:さいたま市大宮区)アマチュア・バンドとして本格的に活動。グループ名は、バンドテーマ曲に用いていたイタリア映画『太陽の誘惑』(1960年)に因んで付けられた。当初のメンバーは高久、田中、初代ドラマー市川らに松崎が加わり、女性ヴォーカリスト(キーボード兼任)もいた。

1965年、彼らは東京北区十条の朝鮮学校のリーダーが主催する、大宮駅前のダンスホール「大蔵」でのパーティーに呼ばれ演奏した[1]。だが、ヴォーカルの女性が腹痛で出演することが出来ず、バンドだけで歌抜きの演奏をしていた所、会場からブーイングが起こった。その時、リーダーがクローク係をしている中学生の少年を指名し、ヴォーカルの代わりをするよう要請した。1番背の高いリーダーが大ケン、2番目が中ケン、彼は小ケンと呼ばれていた。

その中学三年生の少年が後のショーケンこと萩原健一だった。本名は敬三だが、少年のころからなぜか「ケンちゃん」と呼ばれていた。人前で歌ったことがなかった萩原は、とまどったが引き受けビートルズの「マネー」[注釈 2]とアニマルズの「悲しき願い」を歌った[2]。観客は、最年少だった萩原がステージに上がって歌ったので、大喝采となり拍手と歓声をあびた。萩原健一は青少年期から映画、小説、音楽を全身で浴びてきたような繊細な少年だった。

萩原健一加入の経緯については諸説ある。1966年3月ごろに萩原は前出の女性に代わりそのままボーカルとしてメンバーに加わることになった[3]。その後、市川が脱退し、弟バンドである「ジュニア・テンプターズ」からドラムの大口が参加し、1967年春頃にデビューメンバーが揃う。またグループがモデルとしたのは、ヤードバーズ、ローリング・ストーンズ[4]、アニマルズのようなブルース、ブルース・ロック・バンドだったという。グループは埼玉から横浜まで通い、山下町の「ゼブラ・クラブ」にも出演した。ゼブラクラブに出演する際には、グループは「クライング・ベガーズ」という変名を使用した。この当時、横浜本牧の「ゴールデン・カップ」に出演していたのが、ゴールデン・カップスである。

彼らは、ローリング・ストーンズなど「黒っぽい」ロックのカヴァーを得意とした。また、松崎由治が手掛けたオリジナル曲複数を発表できる機会に恵まれた。これは、外部の歌謡曲作家から楽曲を提供される場合が多かったグループ・サウンズのバンドにおいては、珍しい存在であった。またサウンド面の特色としては、松崎の演奏技術の高さと特徴あるギターの音色や、大口の性急感のあるドラミングに特徴があった。ヴォーカル面では、萩原健一のハスキーな声と繊細さの魅力が指摘された。

グループは店舗を複数持っていた中川三郎ディスコテックの恵比寿店、新宿店、有楽町店や、渋谷のリキ・スポーツパレスに出演していた。彼らは1967年5月にザ・スパイダース田邊昭知ホリプロ内の片隅を間借りする形で設立したスパイダクション(Spi Duction、現:田辺エージェンシー)にスカウトされ、「ザ・スパイダースの弟分バンド」として売り出された。6月にヤング720でテレビ初出演、8月には第33回日劇ウエスタンカーニバルに初出場し新人賞を獲得、10月に松崎が作詞・作曲したシングル「忘れ得ぬ君」でレコードデビューする[5]。萩原健一の著書によれば、萩原は67年にモンタレー[6]、69年にはウッドストック[7][8]の2つのフェスティバルを見ていた。これは日本人としてはきわめて珍しい音楽体験の持主であることを実証している。また萩原の証言によると、彼の母は庄屋の娘で、被差別の人々を助ける活動をしていたとのことである[9]

1968年3月5日に発売された2枚目のシングル「神様お願い!」も松崎が作詞・作曲し、オリコンで2位を獲得した。これによって、ザ・タイガースに次ぐ人気グループ・サウンズ(GS)へと登り詰めた。続く6月に発売された「エメラルドの伝説」はオリコン1位を獲得したこと(ザ・テンプターズとしても最大のヒット曲)でその人気は頂点に達し、同月には「ザ・テンプターズ・ファースト・アルバム」もリリースされた。

1968年9月発売の「おかあさん[注釈 3]はオリコン4位、1968年12月発売の「純愛」もオリコン8位と次々にヒット。翌1969年2月25日には、全曲オリジナル曲で固められたセカンドアルバム「5-1=0 ザ・テンプターズの世界」が発売、3月には初の主演映画「涙のあとに微笑みを」も公開された[10]

だが、グループ・サウンズブームの終焉は早かった(1969年3月発売「雨よふらないで」はオリコン21位、1969年7月発売の「帰らなかったケーン」はオリコン31位)。ザ・タイガースなど多くのGSと同様に、ザ・テンプターズの活動も停滞し始めた。

1969年7月には、同年4月20日に東京厚生年金会館大ホールで行われたコンサートを収録したアルバム「ザ・テンプターズ・オン・ステージ」、12月には日本人として初のメンフィス録音となった「ザ・テンプターズ・イン・メンフィス」がリリースされたがこれは萩原のみ渡米しメンバーは録音にほとんど参加していない、実質的には萩原のソロ・アルバムだった。

GSブーム終焉でニュー・ロックの時代に入った翌1970年、全国のジャズ喫茶ゴーゴークラブ回りが活動の中心となった。同年12月27日に東京大手町サンケイホール内にある小ホールでの公演にて解散した。

1971年1月に行われた第43回日劇ウエスタンカーニバルはザ・テンプターズとしての出演が予定されていたが、実際に出演したのは萩原だけだった。この時萩原はザ・スパイダースをバックに歌っている。
解散後

萩原健一と大口広司は、1971年1月にザ・スパイダースの井上堯之大野克夫、ザ・タイガースの岸部一徳(当時は岸部修三)、沢田研二とロックバンド「PYG」を結成。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:42 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef