ザ・シーク
1973年
プロフィール
リングネームザ・シーク
ジ・オリジナル・シーク
ザ・シーク・オブ・アラビア
本名エドワード・ジョージ・ファーハット
ニックネームアラビアの怪人
身長183cm
体重110kg(全盛時)
誕生日1926年6月9日
死亡日 (2003-01-18) 2003年1月18日(76歳没)
出身地 アメリカ合衆国
ミシガン州ランシング
デビュー1950年[1]
引退1998年
テンプレートを表示
ザ・シーク(The Sheik、本名:Edward George Farhat、1926年6月9日 - 2003年1月18日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州ランシング出身のレバノン系アメリカ人(ギミック上はヨルダンのアンマン出身)[2]。
アラブ人ギミックの狂乱系ヒールとして一時代を築き、日本では「アラビアの怪人」の異名を持つ[3]。NWAデトロイト地区のプロモーターとしても活躍し、「デトロイトの帝王」とも呼ばれた。
「シーク(首長)」の名を冠したプロレスラーは数多く存在するため、本国アメリカでは尊敬の意味も込め、ジ・オリジナル・シーク(The Original Sheik)とも呼ばれる[4]。晩年はハードコア・レスリングのオリジネーターの1人として再評価されていた[5]。
甥のサブゥーことテリー・ブルンクもプロレスラー。息子のエドワード・ファーハット・ジュニアも、キャプテン・エド・ジョージのリングネームで1970年代後半にプロレスラーとして活動していた[6]。 両親はレバノンからの移民であり、10人兄弟の1人としてミシガン州ランシングにて生まれる[1]。学生時代はアメリカンフットボールの選手だった[5]。17歳のときに年齢を偽って陸軍に入隊し、第二次世界大戦に出征[1]。その後、プロモーターのバート・ルビーにスカウトされ、1950年にプロレスラーとしてデビュー[1]。デビュー前は、モンタナ州ビュートの銅山で採鉱夫をしていたともされる[2]。 キャリア初期は、ザ・シーク・オブ・アラビア(The Sheik of Araby)のリングネームで中西部や北東部、テキサスなどを転戦[7]。1955年11月18日にはシカゴにてルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦[8]、1950年代後半にはディック・ザ・ブルーザー、ウイルバー・スナイダー、エドワード・カーペンティア、ドン・レオ・ジョナサン、バーン・ガニアらと対戦[9]。WWWFの前身団体であるキャピトル・レスリング・コーポレーションではブル・カリーとタッグを組み、ジェリー・グラハム&エディ・グラハムやマーク・ルーイン&ドン・カーティスと抗争、ヘイスタック・カルホーンやスカル・マーフィーとも対戦した[10][11]。 その後、ザ・シーク(The Sheik)とリングネームを簡略化し、「蛇」「侍女」「火炎攻撃」などのギミックを用い独自のスタイルを確立。1962年5月にはセントルイスでパット・オコーナーを破り、セントラル・ステーツ版のNWA USヘビー級王座を獲得している[2]。1963年10月10日にはアマリロにて、ドリー・ファンク・シニアからテキサス西部版のNWA北米ヘビー級王座を奪取[12]。以降、翌年4月にファンク・シニアに奪還されるまで、フリッツ・フォン・エリック、リッキー・ロメロ、ワフー・マクダニエル、ダン・ミラー、キラー・カール・コックスらを相手に防衛戦を行った[13][14]。ボボ・ブラジルとの流血の抗争劇は十数年間に渡って繰り広げられた。 1964年にデトロイト地区のプロレス興行権を買い取り、NWAビッグタイム・レスリング(NWA Big Time Wrestling)を設立。NWAの会員資格を取得し、プロモーターとしても有力な存在となった。1965年2月6日、ジョニー・バレンタインからデトロイト版のNWA USヘビー級王座を奪取[15]。以降、1980年5月まで15年強に渡り、バレンタイン、ボボ・ブラジル、パンピロ・フィルポ、トニー・マリノ、ジノ・ヘルナンデス、テリー・ファンク、マイティ・イゴールらを破り同王座を通算16回獲得[15]。ビル・ミラー、ルーイン、ザ・ストンパー、アーニー・ラッド、テキサス・マッケンジー、チーフ・ジェイ・ストロンボー、オックス・ベーカーとも王座を巡り抗争を展開した。
来歴
北米での活躍