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ザ・グレート・サスケ
プロフィール
リングネームザ・グレート・サスケ
SASUKE
ニンジャ・サスケ
MASAみちのく
スペル・ニーニョ
本名村川 政徳
ニックネーム東北の英雄
マスター
身長173cm
体重82kg
誕生日 (1969-07-18) 1969年7月18日(54歳)
出身地岩手県盛岡市
所属みちのくプロレス
アルファ・ジャパンプロモーション
スポーツ歴器械体操
トレーナー山本小鉄
グラン浜田
デビュー1990年3月1日
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ザ・グレート・サスケ(The Great Sasuke、1969年7月18日 - )は、日本の覆面レスラー、元政治家、元岩手県議会議員(1期)。本名:村川 政徳(むらかわ まさのり)。岩手県盛岡市出身。血液型O型[1]。
ウルティモ・ドラゴン、スペル・デルフィンと並びジャパニーズ・ルチャの立役者の1人。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
人物
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歌舞伎の隈取りをモチーフとしたマスクを着用しており、普段は赤い隈取りだがヒール転向時は青い隈取りのマスクを着用しSASUKEと名乗る。自ら所属レスラーとして精力的にリングに上ると同時に、みちのくプロレス株式会社代表取締役社長を2003年まで務め、岩手県議選当選後に取締役会長に退いたが、2009年8月に社長へ復帰。本人の発言によれば、経営者としての職務中も(外出時もスーツにマスク姿である)、入浴など私生活においても一切覆面は外さない。
1990年代には難易度の高い空中技を次々にこなす世界レベルのルチャドールであったが、近年は自虐的とも言える行為の目立つ、自爆を試合の目玉にする独特のファイトスタイルを展開している。バラモン・シュウ曰く「サスケにラダーを与えておけば勝手に自爆する」という言葉通り、ラダーにアトミコを自爆したり、2階席にあがろうとしてラダーごと倒されたりする。
東北楽天ゴールデンイーグルスのファンクラブ名誉会員(会員No.6)。
既婚者。メキシコ修行中に知り合った妻との国際結婚である。家族間ではスペイン語で話しているが、子供には幼少時から家庭外では日本語を使うように指導してきたとのこと。
元プロキックボクサーのファイヤー原田が自身のファンであり、2010年4月に原田へ応援メッセージビデオを送り、原田はこのビデオを観て号泣した[2][3]。
2012年3月には仙台市宮城野区に、自身が経営するつけ麺の専門店「麺道THE匠サスケ(メンドウザグレートサスケ)」を開店した。2012年4月13日にミヤギテレビ『OH!バンデス』における特集コーナー「バンデス記者が行く!」にて同店が取り上げられた際には、実際にサスケ本人が登場して同店の看板メニューの紹介を行った。しかし、同店は同年10月に閉店している。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
プロレスラーとしての経歴
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新日本プロレス学校で修業したが、新日本のプロテストには不合格。その後、本名・村川政徳で1990年3月1日、ユニバーサル・プロレスリングから後楽園ホールのモンキーマジック・ワキタ戦でデビュー。その後、リングネームをMASAみちのくとする。
デビュー当時は素顔で、縞の合羽に三度笠を被り入場し、上半身裸でロングタイツを着用するといった現在とは違うスタイルだったが(海外遠征する直前には、入場コスチュームを、白い学ランの応援団スタイルに変更している)、その後メキシコへ遠征した際に覆面レスラーとなった。リングネームはニンジャ・サスケ、覆面とコスチュームのデザインは現在とほぼ同じだが、頭にちょんまげが付いていた。
1992年3月、謎のマスクマン“スペル・ニーニョ”として一時帰国。シリーズ最終戦で巌鉄魁(現・ディック東郷)に『マスク取れ! お前みちのくだろう!』と暴露されてマスクを脱ぎ、MASAみちのくであることをカミングアウトした。その後再びメキシコに遠征していたが、8月の帰国を機にザ・グレート・サスケを名乗る。10月、ユニバーサル後楽園大会でブルドッグKT(現:外道)と初のメインを張り、勝利。試合後にマイクで東北六県にプロレスを根付かせることを目標とした地域密着型プロレス団体「みちのくプロレス」の設立を宣言。退団の背景にはユニバーサルからまったくギャラが支払われなかったという事情があり、ユニバーサルの代表である新間寿恒には「ユニバーサルの東北支部として地方大会プロモートを目的としたい」という話をしていたが、実質的には採算を見込んだ動きであった。
みちのくプロレスは11月の岩手産業文化センターでのプレ旗揚げ戦を経て、1993年3月16日に岩手・矢巾町民体育館で旗揚げ戦を行う。旗揚げ当初はスペル・デルフィンが率いるデルフィン軍団との対戦が主な対戦カードであった。
1993年7月、岩手・マッハランドで団体初のビッグマッチを行い、サスケは引退をかけてスペル・デルフィンと対戦。勝利し、興行的にも成功を収める。
1994年、新日本プロレス主催で行われた第1回「スーパーJカップ」に出場。当時は30団体以上あったインディー団体のうちのひとつでしかなく、試合を東北に限定していた「みちのくプロレス」での活動が中心だったサスケは多くのプロレスファンにまだその存在を知られていなかったが、2回戦で当時新日本プロレス所属だったエル・サムライに勝利し、続く準決勝では獣神サンダー・ライガーからフォールを奪う。決勝戦ではワイルド・ペガサスに敗れたものの、当時ジュニアの頂点に立っていたライガーに勝ち、準優勝したサスケは一躍全国区の人気を得、トップレスラーとなった。このスーパーJカップはテレビ朝日系列「ワールドプロレスリング」内で全国中継されたこともあって、サスケ、そしてみちのくプロレスの存在を全国のプロレスファンに知らしめる大きな契機となった。
4月29日、東京・大田区体育館にてこの大会で『"真"八十八番札所』として新崎人生と対戦。みちのくプロレス旗揚げ以来、後輩選手にシングルマッチで初めてのフォール負けを喫する。
7月、WAR両国大会でウルティモ・ドラゴンと対戦。