ザ・グレート・カブキ
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ザ・グレート・カブキ
プロフィール
リングネームザ・グレート・カブキ
カブキ
高千穂 明久
タカチホ
ヨシノ・サト
デビル・サト
ミスター・サト
ミスター・ヒト
ヒト・トージョー
スーパーX
本名米良 明久
ニックネーム東洋の神秘
身長180cm
体重110kg(全盛時)
誕生日 (1948-09-08)
1948年9月8日(75歳)
出身地 日本宮崎県延岡市
スポーツ歴柔道
水泳
トレーナー芳の里
北沢幹之
ヒロ・マツダ
デビュー1964年10月31日
引退2017年12月22日
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ザ・グレート・カブキ(The Great Kabuki、本名:米良 明久 / めら あきひさ、1948年9月8日 - )は、日本プロレスラーレフェリー宮崎県延岡市出身。

東洋の神秘の異名を持つペイントレスラーとして、アメリカでも大きな成功を収めた[1]。歌舞伎風メイク、毒霧、ヌンチャクなどのオリエンタルなキャラクターは、グレート・ムタなど後のレスラーに強い影響を与えた。
来歴
ザ・グレート・カブキ以前

宮崎県延岡市に3人兄弟の末っ子として生まれる。父親は戦艦大和の元乗組員で、国体の前身である明治神宮競技大会にも出場していた[2]。中学2年生のときに愛知県知立市に移住[3]。学生時代は水泳選手として活躍したほか、柔道にも打ち込んでいた[3]

1964年日本プロレスに入団。同年10月31日、宮城県石巻市石巻市立石巻小学校特設リングにおいて[4]山本小鉄を相手にデビュー[5][6]。当初は本名の米良明久を名乗っていたが、程なくして高千穂 明久(たかちほ あきひさ / 出身地にちなんで幹部の芳の里が「高千穂」と命名[7][8])のリングネームを与えられた。以降、前座試合に出場してキャリアを積む。東京プロレスから移籍してきた永源遙との試合は、当時の若手の黄金カードとされた[9]

1970年4月、21歳にして『ワールドリーグ戦』の第12回大会に出場。ジャイアント馬場アントニオ猪木坂口征二吉村道明星野勘太郎、山本、大熊元司ミツ・ヒライと共に日本陣営代表に抜擢され、ドン・レオ・ジョナサンクリス・マルコフターザン・タイラーダッチ・サベージザ・コンビクトネルソン・ロイヤルポール・ジョーンズパンピロ・フィルポら外国陣営と対戦した[10]。戦績は振るわなかったものの、5月27日の静岡市大会では外国陣営2位のマルコフから反則勝ちを拾っている[10]

1970年9月、アメリカ武者修業に出立[11]。初期は日系移民の多いロサンゼルス地区にて、タカチホ(Takachiho)としてベビーフェイスのポジションで活動していたが[12]1971年2月のデトロイト地区への転戦を機に、師匠格の芳の里にあやかったヨシノ・サト(Yoshino Sato)と名乗ってヒールに転向[13]日系アメリカ人ミツ荒川のパートナーとなり、同じ五大湖エリアのNWFにも進出、1972年1月19日にドミニク・デヌーチ&トニー・パリシを破ってNWF世界タッグ王座を獲得している[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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