ザ・ぼんち
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ザ・ぼんち
今宮戎神社十日戎宝恵駕行列出発セレモニー
(2018年1月10日)
メンバーぼんちおさむ
里見まさと
結成年1972年[1]
事務所吉本興業
活動時期1973年 - 1986年
2002年 -
師匠タイヘイトリオ
出会い興國高校の同級生
芸種漫才
公式サイトザ・ぼんち プロフィール
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ザ・ぼんちは、日本漫才コンビ。1980年代前半の「漫才ブーム」で人気を博したのち、長い活動休止をはさみ、2000年代に再始動。吉本興業所属。
メンバー

ぼんち おさむ1952年12月16日[1] - )

本名:長瀬 修一(ながせ しゅういち)。旧芸名は単に「おさむ」。ボケ担当。立ち位置は向かって左。

大阪市大正区出身(現在は天王寺区在住)。[2]松竹新喜劇俳優曾我廼家明蝶の開設した俳優養成所「明蝶芸術学院」で喜劇役者を目指すが、タイヘイトリオの勧めで漫才に転向し浮世亭歌楽の指導を受ける。3か月ほど「やらかす一石・二蝶」というコンビを組んでいた。
「ザ・ぼんち」の一時解散後、俳優としての活動を始め、『はぐれ刑事純情派』などのテレビドラマなどに出演。

その他おさむの詳細はぼんちおさむの項参照。

里見 まさと(さとみ まさと、1952年4月25日[1] - )

本名:里 道和(さと みちかず)。旧芸名は単に「まさと」。ツッコミ担当。立ち位置は向かって右。

兵庫県姫路市出身(現在は西宮市在住)。父親は広島県尾道市[3]、母親は地元姫路の出身[3]。小学校3年生の時に両親が離婚したのちは、父に育てられる。プロ野球選手を目指して大阪の興國高校に進学[3]し、野球部に入部するも、レベルについていけず野球を断念[4]。そんなときに読んだ週刊誌で「西川きよしさんが『二十歳で家建てた』っていう記事を偶然読んで、こら漫才しかないなあ[4]」と思い立った。高校時代の同級生にのちの相方・おさむや九十九一がいた。高校卒業後の1971年にタイヘイトリオに入門。
「ザ・ぼんち」の一時解散後、おさむ同様俳優業に挑むも、収入が月7万円に落ち込むなど、家族4人で生活できないほど困窮し、自殺を考えるほど追い詰められた[5]が、テレビ番組で共演した亀山房代とともに1989年、「里見まさと・亀山房代」を結成、若手扱いから再出発し、1997年に第26回上方お笑い大賞金賞、1998年上方漫才大賞を受賞するに至った[6]。亀山の結婚・妊娠により、2001年末に「まさと・亀山」は円満解散した[6]。最近はピンでの落語講談にも力をいれており[7]、とくに講談は3代目旭堂小南陵(後の4代目旭堂南陵)の勉強会に参加し10席ほど稽古を付けてもらっている。講談師としての芸名は「旭堂 南総里見八犬伝」。
コンビ略歴

おさむとまさとは大阪の興國高校の同級生であった。ともにタイヘイトリオに師事(レツゴー三匹の弟弟子にあたる)。1972年11月[4]にコンビを結成し、翌年の1973年コンビ名を「ザ・ぼんち」として、同年なんば花月中席(3月11日 - 3月20日)で初舞台を踏む。コンビ名は、山崎豊子小説ぼんち』に由来。当初は松竹芸能に所属したが、やがて和光プロダクションを経て吉本興業に移籍。1975年に発足した秋田實ら漫才作家による若手養成の会「笑の会」に第1期メンバー(他にチグハグコンビ、ガッツジョージ・アーボー、海原はるか・かなた、森啓二・喜多洋司)として入会し、腕を磨いた[8]

そのかたわら、ぼんちは毎日放送ヤングおー!おー!』の番組内ユニット「チンチラチン」のメンバーとして売り出し、同局の『モーレツ!!しごき教室』にも出演して若手タレントの注目株と目された。

やがてザ・ぼんちは1978年10月8日の同会の東京公演「やりまっせ!! 大阪漫才 東京なぐりこみ爆笑大会」において、漫才作家の大池晶が「特にぼんちの漫才の受け方は異常でした」と回想するほどの爆笑を生み、この様子を観客として見ていた東阪企画澤田隆治に、のちに漫才ブームのきっかけとなる様々な番組(後述)の企画を決意させるきっかけとなった[8]

1980年関西テレビの『花王名人劇場』やフジテレビの『THE MANZAI』など、澤田や横澤彪らの仕掛けによる一連の漫才番組に横山やすし・西川きよしB&B島田洋七島田洋八)、島田紳助・松本竜介西川のりお・上方よしお太平サブロー・シローらとともに出演。たちまち全国的な人気を獲得するに至る。ぼんちはそれまで関西以外では無名に近いコンビだったが、『THE MANZAI』第1回放送(1980年4月1日)の翌日、長崎大学の学園祭に出演するため飛行機で移動していた2人に客室乗務員がサインを頼んでくる状況に直面し、まさとは「僕の人生は変わった」と感じたという[8]

1981年、シングルレコード「恋のぼんちシート」を発売し、売上約80万枚に達し[9]オリコンチャートでは最高位2位を記録する大ヒット曲となり、同年全国7か所縦断コンサートを開催。最終日の7月21日[8]には日本武道館で公演し、武道館でコンサートを開催した初の漫才師となった[5]。このころまさとは「末路は哀れでもええから、人気のあるうちに好きなことしよう」とコンビで話し合ったことをのちに回想している[8]。この時期、テレビ・ラジオのレギュラーが週14本[8]あったのに加え、劇場の出番をこなし、合間に取材を受けるという殺人的な多忙ぶりとなり、静岡と山梨で同日同時間に営業の仕事が重なる状態となり静岡からヘリコプターで山梨に移動した(山梨の方の漫才出番を飛ばし、握手会に切り替えた)[8]楽屋点滴を打っていた、などのエピソードが残る。


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