ザントフォールト・サーキット
Circuit Zandvoort2016年の空撮より
所在地Burgemeester van Alphenstraat 108, 2041 KP Zandvoort
ザントフォールト・サーキット(Circuit Zandvoort)は、オランダ王国北ホラント州ザントフォールト(英語版)に位置するサーキットである。フォーミュラ1世界選手権(F1)のオランダグランプリの開催サーキットとして知られる。日本語では「ザントフールト・サーキット」と、表記、呼称されることもある(→#日本語名称)。 北海に面した海岸の砂丘に位置し、第二次世界大戦後、ドイツ軍が戦時中に建設した連絡道路を流用して建設され、1948年8月に完成した(→#建設に至る経緯)。 海岸の砂丘に立地するため、晴れた日は海風などの風により路面に砂がうっすらと積もり、ラップタイムにも影響を与えるという特徴があると言われている[1][W 4][W 5]。 完成時から1980年代までは直線主体の高速サーキットだったが、1999年の改修でコースレイアウトが変更され、現在は複数の高速コーナーと低速コーナーを組み合わせたテクニカルコースとなっている[W 6](→#レイアウトの変遷)。バンク状の最終コーナーからメインストレートを加速し、スピードを乗せて突っ込む1コーナーのターザンコーナーが名物となっている[W 2][W 7]。 1952年から1985年にかけてF1世界選手権のオランダグランプリをほぼ毎年に渡って開催した。1986年以降はF1のレースが開催されることはなくなったが、2021年から再び開催された。 過去には、1991年から2016年までF3の有力ドライバーによって争われるマスターズF3(マールボロマスターズ)が開催され[注釈 3]、2001年から2018年にかけてはドイツツーリングカー選手権(DTM)が開催されていた。 19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ザントフォールト市は近傍のアムステルダムとの間に鉄道が開通したことの恩恵を受けたことにより国内の日帰り観光客やヨーロッパ各地から訪れる裕福な観光客を集め、ビーチリゾートとして栄えた[W 8]。しかし、第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を機にその隆盛は終わりを迎え、1925年に同市の市長となったアンリ・ヴァン・アルフェン 1930年代に入るとまず市内でオートバイによる市街地レースが開催されるようになり、1939年6月3日にザントフォールト市街地において四輪の自動車レースが初めて開催され、大成功を収めた[W 8][W 9]。この成功をきっかけとして、ヴァン・アルフェンは常設サーキットの建設実現に向けて全力を傾けるようになる[W 10][W 8][W 9]。 その矢先、1939年9月にポーランドに侵攻したナチス・ドイツは、翌年5月にオランダも制圧し、ザントフォールト市もドイツ軍の占領下に置かれた[W 8]。そんな状況下にあってもヴァン・アルフェンはサーキット建設計画を進め、市が占領された同年にザントフォールト市北東の砂丘地帯に112ヘクタールほどの土地を確保し、翌1941年にはその土地の四方を「道路」で囲む建設計画を立て、その道路は戦勝記念のパレードを行うためのものだとドイツ軍の司令官を説得して、ドイツ軍の「連絡道路」という名目で建設を進めた[W 10][W 8][W 11][注釈 5]。この道路が後にサーキットのメインストレートとなる[W 12]。 ドイツ人の不興を買ったヴァン・アルフェンは1942年をもって市長を辞職することになったが、1945年に終戦すると市長に復帰し、海岸防御
概要
主要な開催レース
歴史「#主な出来事」も参照
建設に至る経緯
1947年11月14日、ザントフォールト市議会はサーキット建設の予算を承認し、同月19日には市が属する北ホラント州もサーキット建設を認可した[W 8][注釈 6]。
そうして、1948年8月7日にザントフォールト・サーキットは全長およそ4.193 kmのサーキットとして完成し、同日にこけら落としとなる自動車レースが開催された[W 8]。8月28日にはオランダモーターサイクリスト協会(KNMV)によってオートバイレースも開催された。開業当初は一部の区間は普段は公道として使われていたが、そうした道路も徐々に公道としての役目を解かれていき、完全なクローズドサーキットとなった[W 12]。
1952年にはF1のオランダグランプリが初めて開催され、以降、オランダグランプリの開催サーキットとして定着し、1985年まで開催が続けられた。 1970年代に入るとサーキットではたびたび死亡事故が発生し、その主要な原因であるF1の高速化に対応するため、1970年代を通して安全対策のための改修が続いた。そして、度重なる改修工事はサーキットの財政を圧迫し、サーキットの閉鎖がたびたび検討されるようになった[W 12]。加えて、1970年代から1980年代にかけてはモータースポーツ界全体で騒音問題が持ち上がり、ザントフォールトも例外ではなかった。サーキットの所有者であるザントフォールト市議会に対して市民からの苦情が多く寄せられるようになり、1982年に市議会ではサーキットの閉鎖が正式に提起された[W 12]。この時はこれに反発した住民たちにより市議会の与党が選挙で大敗する結果となり、サーキットは閉鎖を免れた[W 12]。
サーキットの凋落(1980年代)