ザルツブルク大司教(ザルツブルクだいしきょう、独:Erzbischof von Salzburg)は、カトリックの大司教である。教皇遣外使節として外から識別される身分、つまりローマ教皇庁の緋の衣を1854年以来身にまとう身分にある。この衣は枢機卿以外は着用できない。ザルツブルクの聖堂参事会は、ローマ教皇が選んだ3名の候補から次期大司教を選択する特別の権利を持っている。 中世においてはザルツブルク大司教領
歴史
ザルツブルクの大司教は1803年の神聖ローマ帝国における聖界諸侯の廃止まで、神聖ローマ帝国の諸侯(フュルスト)を兼ね、そのため大司教侯(Fursterzbischof)の称号を有していた。大司教職には既に10世紀より、「生得の教皇遣外使節」("geborene Legaten")として、切迫した事情のある場合はローマ教皇の決断の代りに教区の中で必要な決断する権限が備わり、破門宣告をすることもできた。1072年以後、1934年のオーストリアとの政教条約締結まで、「ザルツブルク大司教領」であるキームゼー、ゼッカウ、グルク、ラヴァントでは教皇の承認をまたず司教の任命・指名をすることができた。 1869年の第1回バチカン公会議においてもなお、ローマ教皇ピウス9世が、ザルツブルクの大司教マクシミリアン・フォン・タルノーツィを指して、「みたまえ、半教皇(教皇の権限を半分持っている人)がここに来たよ。自分で司教を任命できる人が」と言ったという話が広く伝わっている。
歴代大司教および任期
聖ルーペルト修道院長・初代司教(St. Rupert) 696年-718年
聖ヴィルギル修道院長・行政長官(St.Virgil) 747年-784年。749年から司教。
聖アルノ修道院長・司教(St.Arno) 785年-821年。 798年から大司教。
アダルラム(Adalram) 821年-836年
ロイトラム(Leutram) 836年-859年
アダルウィン(Adalwin) 859年-873年
アダルベルト1世(Adalbert I) 873年
ディートゥマール1世(Dietmar I) 873年-907年 。ハンガリー軍との戦争で戦死。
ピルグリム1世(Pilgrim I) 907年-923年
アダルベルト2世(Adalbert II) 923年-935年
エギルホルフ(Egilholf) 935年-939年
ヘルホルト(Herhold) 939年-958年
フリードリヒ1世(Friedrich I) 958年-991年
聖ハルトヴィク(St. Hartwik) 991年-1023年
グンター(Gunther) 1024年-1025年
ディートゥマール2世(Dietmar II) 1025年-1041年
ヒポルトシュタイン伯聖エーベルハルト1世(St. Eberhard I, Graf von Hippoltstein) 1147年-1164年
コンラート2世(Konrad II) 1164年-1168年
アダルベルト3世・フォン・ベーメン(Adalbert III von Boehmen) 1168年-1177年
ヴィッテルスバッハ伯コンラート3世(Konrad III, Graf von Wittelsbach) 1177年-1183年。枢機卿。
アダルベルト3世・フォン・ベーメン(Adalbert III von Boehmen)(再任) 1183年-1200年
レーゲンスベルク伯エーバーハルト2世(Eberhard II, Graf von Regensberg) 1200年-1246年
ブルクハルト1世・フォン・ツィーゲンハイン(ドイツ語版)、(Burkhart I von Ziegenhain) 1247年
フィリップ・フォン・シュポンハイム(Philipp von Sponheim) 1247年-1256年
ウルリッヒ・フォン・ゼッカウ(Ulrich von Sekau) 1256年-1265年
ヴラディスラフ・フォン・シュレージエン(Wladislaw von Schlesien) 1265年-1270年
フリードリヒ2世・フォン・ヴァルヒェン(ドイツ語版)(Friedrich II. von Walchen) 1270年-1284年
ルドルフ・フォン・ホーエネック(Rudolf von Hoheneck) 1284年-1290年
コンラート4世・フォン・ブライテンフルト(Konrad IV von Breitenfurt) 1291年-1312年
ヴァイハルト・フォン・ポルハイム(Weichard von Pollheim) 1312年-1315年
フリードリッヒ3世・フォン・リープニッツ(Friedrich III von Liebnitz) 1315年-1338年
ハインリッヒ・ピルンブルンネル(Heinrich Pyrnbrunner) 1338年-1343年
オルドゥルフ・フォン・ヴィーセネック(Ordulf von Wiesseneck) 1343年-1365年
ピルグリム2世・フォン・プフハイム(Pilgrim II, von Puchheim) 1365年-1396年
グレゴール・シェンク・フォン・オスターヴィッツ(Gregor Schenk von Osterwitz) 1396年-1403年
エーバーハルト3世・フォン・ノイハウス(Eberhard III von Neuhaus) 1403年-1427年
エーバーハルト4世・フォン・シュタルヘンベルク、(Eberhard IV von Starhemberg) 1427年-1429年
ヨハン2世・フォン・ライスベルク(Johann II von Reisberg) 1429年-1441年
フリードリヒ4世・トゥルフゼース・フォン・エマーベルク(Friedrich IV Truchsees von Emmerberg) 1441年-1452年
ジークムント1世・フォン・フォルカースドルフ(Sigmund I von Volkersdorf) 1452年-1461年
ブルクハルト2世・フォン・ヴァイスプリアッハ(Burkhart II, von Weisspriach) 1461年-1466年
ベルンハルト・フォン・ローア(Berhard von Rohr) 1466年-1482年
ヨハン3世・ベッケンシュラーガー(Johann III Beckenschlager) 1482年-1487年行政長官、1487-1489年大司教
シャウンベルク伯フリードリヒ5世(Friedrich V Graf von Schaunberg) 1489年-1494年
ジークムント2世・フォン・ホレネック(Sigmund II von. Hollenegg) 1494年-1495年
レオンハルト・フォン・コイチャッハ(Leonhard von Keutschach) 1495年-1519年 ユダヤ人の追放を行う。
マッテウス・ランク・フォン・ヴェレンブルク(Matthaeus Lang von Wellenburg) 1519年-1540年
エルンスト・フォン・バイエルン(Ernst von Bayern)1540年-1554年
ミヒャエル・フォン・キューンブルク(Michael von Kuenburg)1554年-1560年
ヨハン・ヤコブ・フォン・キューン=ベラースィ(Johann Jakob von Kuen-Belasy)1560年-1586年
ゲオルク・フォン・キューンブルク(Georg von Kuenburg)1586-1587年
ヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウ(Wolf Dietrich von Raitenau) 1587年 - 1612年 廃位されホーエンザルツブルク城に幽閉される。1617年、獄中で死去。
ホーエネムス伯マルクス・ジッティクス(Markus Sittikus, Graf von Hohenems) 1612年-1619年
ロドロン伯パリス(Paris Graf von Lodron) 1619年-1653年
トゥーン伯グイドバルト(Guidobald Graf von Thun) 1654年 - 1668年。枢機卿。
マックス・ガンドルフ・フォン・キューンブルク(Max Gandolf Graf von Khuenburg) 1668年-1687年。枢機卿。
ヨハン・エルンスト・フォン・トゥーン(Johann Ernst Graf von Thun) 1687年 - 1709年
ハラッハ侯フランツ・アントン(Franz Anton Furst von Harrach) 1709年 - 1727年
フィルミアン男爵レオポルト・アントン・エロイテリウス(英語版)(Leopold Anton Eleutherius Freiherr von Firmian) 1727年 - 1744年。プロテスタントを迫害した(de:Salzburger Exulanten)。
ヤコブ・エルンスト・フォン・リーヒテンシュタイン-カステルコルノ(Jakob Ernst von Liechtenstein-Castelcorno) 1744年-1747年
ディートリヒシュタイン伯アンドレアス・ヤコブ(Andreas Jakob von Dietrichstein) 1747年-1753年
シュラッテンバッハ伯ジークムント3世(Siegmund III. Graf von Schrattenbach) 1753年 - 1771年
コロレド伯ヒエロニュムス(Hieronymus Graf von Colloredo) 1772年-1812年。1803年のザルツブルク世俗化により聖界諸侯の地位を失う。大司教に仕える宮廷音楽家だったモーツァルトとの対立で知られる。
ジークムント・クリストフ・フォン・ツァイル・ウント・トゥラウハブルク(行政長官)(Sigmund Christoph von Zeil und Trauchburg)1812年-1814年
レオポルト・マクシミリアン・フォン・フィルミアン(Leopold Maximilian von Firmian) 1816年-1822年。ウィーン大司教に転じ、1831年死去。
アウグスト・グルーベル(Augustin Gruber) 1823年-1835年
フリードリヒ・ヨハネス・フォン・シュヴァルツェンベルク(Kardinal Friedrich Johannes von Schwarzenberg) 1835年-1849年。枢機卿。プラハ大司教に転じ、1885年死去。
マクシミリアン・ヨーゼフ・フォン・タルノーツィ(Kardinal Maximilian Joseph von Tarnoczy) 1851年-1876年。枢機卿。
フランツ・アルベルト・エーダー(Franz Albert Eder) 1876年-1890年
ヨハネス・ハラー(Kardinal Johannes Haller) 1890年-1900年。枢機卿。
ヨハネス・バプティスト・カッチャタラー(Kardinal Johannes Baptist Katschthaler) 1900年-1914年。枢機卿。
アンドレアス・ローラッハー(Andreas Rohracher) 1943年-1969年
エドゥアルト・マッハイナー(Eduard Macheiner) 1969年-1972年
カール・ベルク博士(DDr. Karl Berg) 1973年-1988年
ゲオルク・エーダー博士(Dr. Georg Eder) 1989年-2002年
アロイス・コートガッセル博士(Dr. Alois Kothgasser Salesianer Don Boscos) 2003年-2013年。後任のラクナーが任命されるまで、大司教区における教皇代理。2018年現在、名誉大司教。
フランツ・ラクナー(Franz Lackner) 2014年-
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