ザス・ピッツ
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セイズー・ピッツ

ザス・ピッツ
ZaSu Pitts
ザス・ピッツ(1930年)
本名Eliza Susan Pitts
生年月日 (1894-01-03) 1894年1月3日
没年月日 (1963-06-07) 1963年6月7日(69歳没)
出生地カンザス州ラベット郡
死没地ハリウッド
国籍 アメリカ合衆国
職業女優
活動期間1917 - 1963
配偶者トム・ギャラリー(1920年 - 1933年、離婚)
ジョン・E・ウッドウォール(1933年 - 1963年)
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ザス・ピッツ(ZaSu Pitts、1894年1月3日 - 1963年6月7日)はアメリカ合衆国女優サイレント映画からトーキーにかけて活躍した。『グリード』で悲劇的ヒロインを演じたことで有名だが、出演作はコメディ映画が多い。
生涯

カンザス州パーソンズ(英語版)に、ルランドゥス・ピッツとネリー・ピッツ(旧姓・シャイ)夫妻の間に4人兄弟の第3子として生まれる。出生名はイライザ・スーザン・ピッツ(Eliza Susan Pitts)[1]。父親は南北戦争に第76ニューヨーク義勇歩兵連隊で参加。しかし戦争で両足を失い、その後家族でカンザスに移住していた.[2]

ピッツの生年を特定することは難しい。ピッツの生まれたカンザス州は1911年まで出生記録を保管していなかったからである。『ニューヨーク・タイムズ』はピッツの死亡記事に1900年生まれと記し、墓石にもそう刻まれている、しかしながらピッツの伝記作家スタンフは1894年としている[3]。『Notable American Women』も1900年の国勢調査で彼女を6歳としていることを指摘している[1]

イライザ・スーザンという名前は父親の二人の姉妹イライザとスーザンから採られた。Zasuというニックネームは、ElizaとSusanが由来である。ザス・ピッツと発音されることが多いが[4]、1963年出版のピッツの著書『Candy Hits』15ページでピッツ自身は「セイズー(Say Zoo、 [?se?zu?])[5]」が正しいとしている。しかし、メアリー・ピックフォードから「みんな発音を間違えるわ」と言われ、その通りだったと本の中で認めている。

1903年、ピッツが9歳の時、家族は過ごしやすい温暖な気候と仕事を求めてカリフォルニア州サンタクルーズに移る。この時のピッツ家の家屋は208 Lincoln Streetに現存している。ピッツはサンタクルーズ・ハイ・スクールに進学し、そこで演劇を始める[6]ザス・ピッツ(1920年頃)

1914年から1915年にかけて、ピッツは学校や地元の大衆劇団の舞台に立つ。1916年、22歳の時、ロサンゼルスに移り、映画のエキストラとなる。1917年脚本家フランシス・マリオンの目に止まり、メアリー・ピックフォード主演の『The Little Princess(小公女)』の主要キャラ・ベッキー役に抜擢される。(小公女#登場人物を参照)

以後、ユニバーサル・ピクチャーズの1巻ものコメディに出演し、ピッツの人気は徐々に高まる。1919年、満を持してキング・ヴィダー監督の『楽しき時間』で長編初主演。翌1920年に結婚したトム・ギャラリー(1897年 - 1993年)と『Heart of Twenty』(1920年)、『Bright Eyes』、『Patsy』(ともに1921年)、『A Daughter of Luxury』(1922年)で共演する。

喜劇女優としての評価が定着したピッツだったが、1924年エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督が叙事詩的悲劇『グリード』にピッツを起用する。このキャスティングには誰もが驚かされた。映画は最初の編集では7時間半を越え、会社によって2時間に短縮され公開。興行は失敗したが、現在では4時間復元版がリリースされ、映画史的にも傑作との評価を得ている[7][8]。シュトロハイムはピッツを「偉大な悲劇女優」と高く評価し、以後も『結婚行進曲(英語版)』(1928年)『Hello, Sister! 』(1933年)で彼女を起用した。

しかしピッツの主戦場はコメディ映画だった。1930年代初期、セルマ・トッドと組んで、B級映画や短編喜劇に多く出演し、名声を博した[9]

ピッツのは決まって「怒りっぽい」「慌てもの」「心配性」の「オールドミス」だった。観客は彼女を見るとたちどころにそういう役だと理解し、漫画や映画でさかんに真似された。ハル・ローチ(英語版)の短編・長編に主演、スリム・サマーヴィル(英語版)の長編喜劇シリーズでW主演。トーキーの時代になっても喜劇への出演が続いた。しかし、それがマイナスになることもあった。喜劇でない『西部戦線異状なし』(1930年)に主人公の母親役で出演した時、熱演したにもかかわらず、試写会でピッツが出ると笑いが起こり、結局、役はベリル・マーサー(英語版)に代えられた。エドナ・メイ・オリヴァー(英語版)の跡を次いで主演した女探偵ミス・ヒルデガード・ウィザーズ[10]シリーズ2作『The Plot Thickens』(1936年)『Forty Naughty Girls』(1937年)も好評を得られなかった[11]

1940年代になると、ラジオビング・クロスビーアル・ジョルソン、W・C・フィールズ(英語版)、ルディ・ヴァリーとトークで冗談を言い合った。また、ラジオドラマ『Big Sister』[3]、『Fibber McGee and Molly』に出演した。

1944年には推理劇『Ramshackle Inn』でブロードウェイに進出。この芝居はピッツのために書かれたもので、好評につき後に巡業もされた。

第二次世界大戦後は、『ライフ・ウィズ・ファーザー』(1947年)などでおせっかいな親戚役を演じる。1950年代は活動の場をテレビに移し、CBSシチュエーション・コメディ『The Gale Storm Show』でゲイル・ストーム(英語版)とコンビを組んだ。

1950年半ばにがんと診断されるも、仕事を続ける。最後の映画出演はスタンリー・クレイマー監督の喜劇『おかしなおかしなおかしな世界』(1963年)で、バスター・キートンジェリー・ルイス三ばか大将ら大勢の喜劇役者に混じって、サンタ・ロジータ警察署の交換手を演じた。

1963年6月7日ハリウッドで死去。69歳だった。遺体はカルバーシティホーリー・クロス墓地に埋葬された[3]。同年、死後に出版された著書『Candy Hits』はキャンディのレシピ本だった。
家族

最初の夫ギャラリーとは1933年に離婚。ギャラリーはその後ボクシングのプロモーターとなり成功した[12]。二人の間に2子あり。ザス・アン・ギャラリー(1922年 - 1994年[13])とドナルド・マイケル・"ソニー"・ギャラリー(1922 - 2014)。ドナルドは養子で、実母はピッツの親友だったバーバラ・ラ・マー[14][15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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