ザスパクサツ群馬
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ザスパクサツ群馬
原語表記ザスパクサツ群馬
呼称ザスパクサツ群馬
愛称ザスパ
クラブカラー    紺
[1]
    黄[1]
創設年1995年
所属リーグ日本プロサッカーリーグ
所属ディビジョンJ2リーグ
クラブライセンスJ1
ホームタウン草津町前橋市を中心とする群馬県全域[1]
ホームスタジアム
正田醤油スタジアム群馬[1]
収容人数15,190[1]
運営法人株式会社ザスパ[1]
代表者赤堀洋[2]
監督 大槻毅
公式サイト公式サイト

ホームカラーアウェイカラー

テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

ザスパクサツ群馬(ザスパクサツぐんま、: Thespakusatsu Gunma)は、日本吾妻郡草津町前橋市を中心とする群馬県全県をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するサッカークラブ。
概要

1995年に創設された「東日本サッカーアカデミー」に所属する選手を中心に編成されたリエゾン草津が前身であり、2002年に「ザスパ草津」へ名称を変更。2005年よりJリーグへ加盟、2012年に「ザスパクサツ群馬」へ名称を変更した[1]。ホームスタジアムは正田醤油スタジアム群馬、練習場は前橋市下増田運動場、サンデンフットボールパークなどである(詳細は#スタジアム・練習場を参照)。運営会社は株式会社ザスパで、2003年2月設立から2019年までは株式会社草津温泉フットボールクラブという商号であった。

クラブ名は、英語で温泉を意味する「スパ(spa)」とチーム誕生の地である草津温泉に由来する[1]。クラブマスコットは、2002年に誕生した湯友(ゆうと)である[1][3]。エンブレムは草津町の「前口諏訪神社」にて行なわれる伝統行事「前口の獅子舞」をモチーフにしている[3]
歴史
1995年 - 2004年

1995年に専修学校の東日本サッカーアカデミーに所属する選手を中心として編成された「リエゾン草津」が前身となる。選手の育成や将来のJリーグ加盟を目的としながら群馬県社会人サッカーリーグに所属していた[4]

1999年に同アカデミーが閉鎖され、選手が4名へ減少したが、地元サッカークラブの協力を得てチームは存続[4]。また、選手が草津温泉宿泊施設などでアルバイトの斡旋提供を受けて働きながら練習を続けた[3]

2002年、「ザスパ草津」へ名称を変更[1]。指導者として元モンテディオ山形監督の植木繁晴を招き、元日本代表のGK小島伸幸、元鹿島アントラーズDF奥野僚右らを獲得。選手が働いて得た収入をクラブ運営費に充てた。県リーグ1部を全勝優勝すると、図南SCとの入替戦にPK戦の末勝利し、翌年から新設された関東サッカーリーグ2部へ昇格した。

2003年2月、運営法人となる株式会社草津温泉フットボールクラブを設立[1] し、関東リーグ2部で優勝。また、「Jリーグ加盟を標榜するクラブに対する優遇措置」の適用を受けて出場した第27回全国地域サッカーリーグ決勝大会でも優勝[4] した。天皇杯に初出場したが、1回戦で市立船橋高校に敗れた。この年は鹿島や清水で活躍した、サントスが在籍していた。

2004年は関東リーグ1部を飛び級して日本フットボールリーグ(JFL)に参加し、年間順位は3位。また、Jリーグ加盟を申請しており、12月6日のJリーグ臨時理事会でJリーグ入会が承認された[5]第84回天皇杯は、C大阪、同年のJリーグ年間王者である横浜FMに勝利して、ベスト8へ進出した。
2005年 - 2012年各年度の在籍選手については「ザスパクサツ群馬の選手一覧#背番号変遷」を、各年度の成績については「ザスパクサツ群馬の年度別成績一覧」を参照

2005年より手塚聡が監督に就任した。J2初勝利は同年4月2日、同じく昇格組の徳島戦だった。3月5日の開幕後、初勝利まで約1カ月、5戦を要した[6]。昇格初年度は最下位、植木が監督に再任した2006年、2007年も下位に低迷し、2005年後半には経営問題が浮上した(詳細は#2005年の経営問題を参照)。この間、リエゾン草津時代から在籍していた堺陽二が2006年にクラブを離れ、肺がんを患っていた社長兼GMの大西忠生が同年6月に死去した。

2008年まで植木が監督を務め、2009年は佐野達、2010年からの3年間は副島博志が指揮を執った。2008年は一時期昇格争いに絡む時期もあったが、高田保則が離脱した終盤に失速した[7]。この間の最高成績は2008年、2011年の9位で、最多勝ち点は2011年の57。前述の高田のほか、中盤では熊林親吾松下裕樹、FWでは都倉賢らが活躍した。都倉は2009年シーズンにリーグ2位となる23得点を挙げた。
2013年 -
2013年
このシーズンからクラブ名称をザスパクサツ群馬へ変更(詳細後述)。副島の後任監督には秋葉忠宏が就任した。松下や熊林といった主力を放出したチームは、新加入の平繁龍一を中心にリーグを戦うも、残留争いから抜け出せずに20位でシーズンを終えた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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