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(国旗)(国章)
ザクセン=ラウエンブルク公領(黄緑色、1400年)
首都ラウエンブルク
ラッツェブルク(1619年以降)
公
1296年 - 1305年エーリヒ1世
1865年 - 1876年ヴィルヘルム1世
変遷
ザクセン公領の分裂1296年
ナポレオン戦争1803年 - 1814年
デンマークとの同君連合1814年 - 1864年
プロイセン王国と同君連合1865年 - 1876年
プロイセン王国に併合1876年
ラウエンブルク城ザクセン=ラウエンブルク公爵家最後の女子相続人、アンナ・マリア(右)と妹ジビッラ・アウグスタ(左)、1690年頃1848年のザクセン=ラウエンブルク1860年代のザクセン=ラウエンブルクの国旗
ザクセン=ラウエンブルク公国(独: Herzogtum Sachsen-Lauenburg)は、神聖ローマ帝国の公爵領、領邦。1296年から1803年、1814年から1876年まで存在した。現在のドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の東南端部に位置し、公国の中心部は現在のヘルツォークトゥム・ラウエンブルク郡 (en
) に相当する領域だった。首都は国名の由来であるラウエンブルク/エルベ (en) だったが、1619年にラッツェブルク (en) に移された。ザクセン公国は1296年の分割相続により、ザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクに分裂した。ザクセン=ラウエンブルク公爵の居所はラウエンブルク及びラッツェブルクに置かれた。分裂した2つの公国は、成立当初からザクセン公が持つ選帝侯の地位を巡って対立した。1314年の国王選挙では、ハプスブルク家のフリードリヒ3世(美王)とヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世が競合状態となった。この選挙でザクセン=ラウエンブルク公ヨハン2世はザクセン選帝侯としての資格でルートヴィヒ4世に投票、一方でザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世は同じくザクセン選帝侯の資格でフリードリヒ3世に票を投じた。
1314年の国王選挙では、ザクセン=ラウエンブルクの支持したルートヴィヒ4世が最終的に勝利、1328年には神聖ローマ皇帝に即位した。しかしルートヴィヒ4世は1346年、対立王に選出されたルクセンブルク家のカール4世によって廃位され、翌1347年に没した。カール4世はザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世に支持されており、1356年の金印勅書では、ザクセン=ヴィッテンベルク公がザクセン選帝侯と定められた。ザクセン選帝侯に昇格したザクセン=ヴィッテンベルク系のアスカーニエン家(アスカン家)が1422年に絶えた時、ザクセン=ラウエンブルク公エーリヒ5世は選帝侯位を相続しようとしたが叶わず、ヴェッティン家のマイセン辺境伯フリードリヒ4世がザクセン選帝侯位を獲得した。