公用語ドイツ語
首都コーブルク
公爵
1572年 - 1586年ザクセン選帝侯アウグスト
1905年 - 1918年ザクセン=コーブルク=ゴータ公カール・エドゥアルト
変遷
エアフルトの分割
ザクセン=コーブルク公国 (ドイツ語: Sachsen-Coburg) はエルネスティン系ヴェッティン家の世襲による君主制国家であり、居城はオーバーフランケン地方のコーブルクに置かれていた。公家の断絶や相続に伴う分割により、何度か同族の公国に併合・分割されたが、1826年にザクセン=ゴータと合同 (同君連合) してザクセン=コーブルク=ゴータ公国となり、ドイツ革命による君主制廃止まで続いた。 1347年にヘンネベルク=シュレージンゲン伯ハインリヒ8世が亡くなったとき、ヘンネベルク=シュレージンゲン家の所領は未亡人ユッタ・フォン・ブランデンブルクとハインリヒ8世の弟ヨハンの間で分割された。それに先立つ1346年にユッタの2番目の娘カタリーナ・フォン・ヘンネベルクと結婚したヴェッティン家のマイセン辺境伯フリードリヒ3世は、嫁資として南東部にあたるコーブルクを要求していたが、義父ハインリヒ8世の強い反対で叶わなかった。しかし6年後にユッタが亡くなってその遺領が3人の娘に相続されることになり、カタリーナがコーブルクを相続したためフリードリヒ3世はコーブルクを手に入れることができた。こうしてコーブルクはザクセン最南部の領土となった。1485年にザクセン選帝侯領がザクセン選帝侯エルンストとザクセン公アルブレヒト3世の間で分割
歴史ザクセン=コーブルクの紋章。「Fideliter et constanter」(不変の忠誠)のモットーが書かれている。コーブルク郡庁舎に掲げられた紋章
エルネスティン家
ヨハン・エルンスト公16世紀に建てられたエーレンブルク城。コーブルク。
テューリンゲンのエルネスティン家領は1547年のシュマルカルデン戦争での敗北により大幅に削られてしまった。ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒ1世はミュールベルクの戦いで敗れて捕縛され、選帝侯位を剥奪された上に帝国アハト刑に処されたが、1552年のパッサウの和約でザクセン公の肩書とテューリンゲンの領地だけは確保できた。ザクセン=コーブルク公ヨハン・エルンストはコーブルクの所領を安堵されたが、ヨハン・フリードリヒ1世の処遇について一切手出しを許されなかった。