ザクセン戦争_(ハインリヒ4世)
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この項目では、11世紀の戦争について説明しています。8世紀から9世紀にかけての戦争については「ザクセン戦争 (カール大帝)」をご覧ください。

ザクセン戦争(ザクセンせんそう、ドイツ語: Sachsenkriege、英語: Saxon Wars)は、1073年にはじまった神聖ローマ帝国[1]皇帝ハインリヒ4世に対するザクセン公国の貴族達の反乱。
目次

1 概略

2 戦争の経過

2.1 ハインリヒ3世のザクセン経営

2.2 父の早世とハインリヒ4世の自立

2.3 衝突のはじまり

2.4 ゲルシュトゥンゲンの平和

2.5 ハルツ城の略奪

2.6 ウンシュトゥルトのホムブルクの戦い


3 さらなる戦い

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

概略

ザクセン戦争は、1024年以来神聖ローマ帝国の皇帝位にあったザーリアー朝(ザリエル家)に対するザクセン貴族の長年の対抗意識から生まれたもので、ハインリヒ4世治下の1073年夏から1075年末にかけて頂点に達した。ハインリヒ4世とローマ教皇グレゴリウス7世の間で繰り広げられた叙任権闘争に巻き込まれ、カノッサの屈辱1077年)の前後にわたる教皇・皇帝間の対立に複雑な影響をあたえた。
戦争の経過
ハインリヒ3世のザクセン経営

ザリエル家とザクセン人の間の対立の芽は、すでにハインリヒ4世の父ハインリヒ3世の治下において潜在的に形成されていた。

「黒王」ハインリヒ3世は、本拠地フランケン大公領のほか、相互相続契約などによってシュヴァーベン大公領やバイエルン大公領を手に入れ、それを直轄地とし、隣接するボヘミアハンガリーまで臣従させた。また、ハインリヒ3世はクリュニー会の改革運動を支持し、ローマ教皇庁の改革にもみずから乗り出した。1046年には、ストリ教会会議ベネディクトゥス9世シルウェステル3世の聖職剥奪とグレゴリウス6世への辞職勧告を決め、信頼するドイツ人司教を教皇位につけてクレメンス2世とし、その手で戴冠された[2] ゴスラーの皇帝居城

「黒王」ハインリヒ3世がもっとも意を注いだのは、ザクセン大公領の経営であった。1045年、ゴーゼック(de)伯のアダルペルト(de)をブレーメン大司教に任じて、ヘルマン・ビルング以来世襲的ザクセン大公の地位にあったビルング家の権力を削ごうとした。また、ゴスラー周辺のハルツ山地地方に多数の王室直轄地(Krongut)をつくりだし、城塞を築いて、皇帝居城(Kaiserpfalz)に多数の臣下と共に滞留した。これは、ザクセンの人びとにとっては大きな経済的負担となっていた。
父の早世とハインリヒ4世の自立

中世ドイツ最強[3]とも評価される皇帝ハインリヒ3世がイタリア遠征後の1056年に39歳で死去すると状況は一変した。

遺児ハインリヒ4世は皇帝の後継者としてローマ王に即位していたがわずか6歳であり、母アグネス(de)がその摂政となったが、ローマ教皇の選出に際しては2人の意向は全く無視され、枢機卿団による互選(コンクラーベ)によって選出された。それどころか、教皇ステファヌス10世は幼帝ハインリヒ4世を廃し、みずからの兄であるロレーヌ公ゴドフロワ3世への戴冠を画策した[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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